403号 8年がかりの史料レスキュー―宮城県仙台市

救う―救済活動東日本大震災

新型コロナウイルス流行の収束が見通せない中、4月半ばに、宮城県仙台市の個人宅にて史料レスキューを実施しました。所在の確認から8年かかって、最後は緊急レスキューという形で、史料を保全することができました。その経緯を報告します(佐藤大介)。

1、「3.11」後の状況確認―2013年冬

2011年3月11日に発生した巨大地震と津波は、宮城県の県庁所在地である仙台市にも大きな被害をもたらしました。
仙台市で、地域に残る歴史資料の救済・保全に取り組んだのは、当時の仙台市博物館市史編さん室でした。市史編さん事業や、博物館の展示で関係のあった所蔵者方への連絡や、被災した古文書などの救出を行いました。当時の状況については、宮城資料ネットニュース121号、「東日本大震災 仙台市博物館・市史編さん室の保全活動」を参照ください。また、同館による報告書『仙台市博物館の資料レスキュー活動―東日本大震災後の取り組み―』(非売品 2014年)もまとめられています

http://miyagi-shiryounet.org/news121/

宮城資料ネットでは、同館との情報交換など連携しつつ対応していました。今回レスキュー対象となった個人宅での訪問調査を実施したのは、2013年12月のことでした。長年同家と関係があり、仙台市史の委員でもあった研究者(Nさん)からの依頼で、市史編さん室とともに対応しました。
この所蔵者が所蔵する史料については、1980年代半ばに、同じ仙台市にある仙台市歴史民俗資料館が調査を行っていました。この情報が共有され、2000年代初頭からの仙台市史編さん事業でも調査が行われました。あわせて1000点ほどの整理済みの史料は、それぞれの機関が整理した状態で、無事に保管されていることが確認されました。

一方で、この家の蔵の2階に、古い書類や史料がまだ大量に保管されていることが確認されました。土蔵は地震で壁の一部が剥がれていましたが、雨漏りなど史料に影響のあるような被害の様子はなく、所蔵者も蔵を取り壊す意向はないということでした。当時、沿岸部で津波で被災した史料の救済が続いていたため、さしあたっては整理済みの分を搬出して、宮城資料ネットでデジタル撮影することとしました。

2、長引いた借用と状況の変化―2019年~2020年

宮城資料ネットでは、80件を超える被災史料に対応しています。その中で、借用が長引くことにもなっています。また、Nさんや市史編さん室と同行したため、連絡を「他人任せ」にしてしまっていました。そのような中で、2019年夏、Nさんからこの史料の状況について問い合わせがありました。借用した史料については、必要な対応は終わっていたので、早々に返却した上で、未整理の史料の保全を行いたい旨を伝えました。

ところが、2019年10月12日からの台風と豪雨で、宮城県では南部を中心に洪水で大きな被害が出ました。被災した史料へのレスキュー活動が続く中で、年が明けて2020年の初めから、日本でも新型コロナウイルスの感染が確認されました。
2020年4月初めから全国の緊急事態宣言が出る中で、史料レスキュー活動も制限されることとなりました。

2020年秋、再びNさんから連絡があり、所蔵者方では蔵の片付けを予定しているので、以前にそのままにした史料にも対応する必要がある、との連絡がありました。そこで、仙台市歴史民俗資料館と連携して、保全活動を実施することにしましたが、諸事情で実施できないまま、2021年2月13日未明に地震が起こりました。今度はこちらから、仙台市民俗資料館を通じて状況の確認を行い、「温かくなってから」活動を実施する方向となりました。
一方で、宮城県と仙台市で、新型コロナウイルスの感染者が急増したため、3月11日からは独自の緊急事態宣言が出されました。

3,独自の緊急事態宣言下で―2021年4月、緊急レスキュー

2021年4月2日、仙台市歴史民俗資料館から電話がありました。Nさんから、所蔵者方で蔵の片付けをするので必要なものは持っていってよいとの連絡があったため、急遽訪問して史料を搬出したということでした。

気になったのは、2013年に確認した資料が含まれているのかどうかででした。資料館には、史料の返却とともに現状確認をしたい旨を依頼しました。4月7日午後、資料館の学芸員と現地を訪問すると、土蔵の中にはまだたくさんの史料が残されていました。資料館ではコンテナ5、6箱を搬出したものの、すでに収蔵庫が飽和状態であるため、これ以上は保管出来ないいうことでした。所蔵者からは、4月中には片付けを終える予定、との話があったので、4月15日に一日かけて、資料の搬出を行うこととしました。

ところが、予定よりも早い4月13日午前11時、資料館から電話で、業者が入って片付けが始まったのですぐに来て欲しい、との連絡が入りました。大慌てで、一トン車を運転して現地に急行しました。

正午に現地に到着すると、収集車の前には書籍などが山積みになっていました。非常に焦りました。2階の書類はどうしたのかと確認すると、業者さんから、これらは1階に保管されていたもので、かつ「書類は捨てないように」指示もあったので、とりあえずおいてある、とのことでした。

「どれが必要ですか」と確認されましたが、選別している時間も、心の余裕もありませんでしたので「とりあえず、全部」と答えました。現場へは一人で向かったのですが、幸い業者さんが搬入を手伝ってくれたため、5分ほどで積み込みは完了。あっという間に一トン車はほぼ満杯になりました。それから2階の書類の一部を積み込み。夕方には歴史民俗資料館からも車が駆け付け、そこにも積み込んで、日暮れの前に撤収しました。東北大学災害科学国際研究所(災害研)への搬入作業は、勤務時間終了後も手伝ってくれた学芸員氏と私の2人、のち私1
人。90分ほどかけて、いつもはボランティアの作業場所になっている場所に搬入を終えました。

まだ一部の資料が残っていたため、翌14日、午前中の大学の講義を終えてから、再び現地に向かいます。土蔵の片付けは続いていました。その中で、業者さんが蔵の2階で物陰にあった古い書類や書籍、掛け軸類を見つけ出してくれていました。昨日と合わせて、感謝、感謝です。今度は一トン車に半分程。これも災害研に搬出しました。業者さんからは「昨日はあと数分遅かったら全部収集車だったね」という話も。ぎりぎりのところではありましたが、2013年に確認していたものも含め、「なにかが書かれたもの」は、近年の古新聞を除いてすべて救出できました。

4 救出を終えて

活動から2週間以上が過ぎたのですが、振りかえると興奮さめやらず、長々と書き連ねてしまいました。恐縮です。その上でなお、今回の反省と、現状について記しておきます。

・未整理の史料の所在を確認した後、それらを誰が、どのように対応(保全)するのかをあいまいなままにしていた。私としては、公的機関がかかわったのだから、いつかはだれかが対応するだろうと、他者任せにしていた。連絡も他者任せだった。確認された資料は、間を置かずに保全するのが望ましいのだろう。

・そうするとして、史料の置き場所は?現在の仙台市の史料所蔵機関には、史料レスキューで搬出した史料を、一時的にでも保管しておけるような場所は、ない。各所の収蔵庫・保管庫はすでに長年にわたって飽和している。そのため、現場の担当者は、やむなく史料を選んで搬出せざるをえなくなっている。泣く泣く置き去りにする、ということもあるのかもしれない。
大学も、今回については新型コロナウイルスの影響で「たまたま、空いていた」場所があったので、すべての資料を搬入できた。しかし、もうこれ以上の保管場所はない。
「総体としての史料保存」は、もちろん原則とすべきなのだろう。現実にはその完遂は極めて厳しい状況にある。個人で史料を保存していくのは難しくなりつつある。そこに大きな災害が起こったら…。とにかく、どこか置いておける場所が欲しい。とにかく。
デジタル化で保全できる資料の情報はほんの一部に過ぎない。現物をこそ、保存する場所が必要なのである。10年前にも同じようなことを各所で訴えたのだが、状況はあまり変わっていない。普及すべき立場にある己の力不足を嘆く。

・個人的には、2019年10月台風の時もそうだったが、力仕事をした後、数日寒気が続く。10年経てば、10歳年を取るという、当たり前のことを思い知る。

・仙台市歴史民俗博物館や、地元の研究者の方が、調査・事業の後も、所蔵者との関係を継続していた。そのことで、直前であっても連絡が得られ、史料の救出につながったのは、幸いなことであった。所蔵者、地域の人々との関係が重要だということも、あらためて認識した。

搬出した資料の落ち着き先が決まるのは、しばらく先になりそうです。しかし、とにかく救出できました。モノさえ残れば、あとはゆっくりと考えられます。そのことを多としたいと思います。