100号 東日本大震災 被災地より(その1) 石巻市街地・雄勝町・北上町

救う―救済活動東日本大震災

 宮城資料ネット事務局の佐藤大介です。本メールニュースも100号となりました。90号を過ぎたあたりから、記念の100号をどのような内容にしようか事務局で話し合っていました。その100号は、3月11日に発生した大地震における歴史資料レスキューの被災地レポートとなりました。支援者の方に車を御提供いただき、4月4日に石巻市街地、同市雄勝町、同市北上町の三ヶ所を、今回初めての現地視察として事務局4名で訪れました。

■大津波に耐えた土蔵-石巻市街地・4月4日

 4月4日は、未曾有の津波被害を受けた地域の一つである、宮城県石巻市の視察でした。

 三陸自動車道を東に向かい、矢本パーキングエリアを過ぎると、徐々に水田への浸水や、津波で流されたがれきや車が見え始めました。石巻河北インターチェンジを降りると、道路には津波による砂の跡が残されています。市街中心部に近づくにつれ、道路の両側には津波を受け廃棄される生活道具が、うずたかく積み上げられるようになります。石巻市中心部は、つぶれた家屋や自動車、津波でえぐり取られたアスファルト舗装、なぎ倒された電柱や信号機で、車のすれ違いが難しくなる状況でした。しかし、市街地はまだ建物の形は残っています。石巻市街地のシンボルである日和山から海岸線までの一体は、文字通りがれきの山になってしまっていました。

(写真左)がれきの山となった海岸部
(中)砂地に残された「SOS」
(右)津波に耐えた土蔵

 石巻市街地では、地元の郷土史サークルの方から救援要請のあったH家を訪問しました。同家の主屋は大津波で押しつぶされてしまいましたが、数年前に耐震補強をされたという2階建ての土蔵は、押し流された数軒の家屋を食い止め、奇跡的に倒壊を免れていました。1階は浸水しましたが、2階部分は浸水もなく、古文書などはほとんど無傷の状態で保管されていました。これらの資料はレスキューを行い、東北歴史博物館に一時保管する方向で対応することとなりました。

■消えた街・消滅した資料-雄勝町・北上町


 4日午後には、市街地から北上して石巻市雄勝町と北上町に向かいました。両町では、合併前の北上町史編さん事業などで保全した数家の古文書資料の現状確認を行うことにしていました。

 雄勝町へは、まず石巻市河北町を経由し、北上川(追波川)の堤防上に作られた道路を通って新北上大橋まで進んでいきます。堤防に上がってしばらく進むと、ヨシ原が津波でなぎ倒され、押し流された船が見え始めます。松の木の大木は、河口にあった防砂林のものでしょか。その後、新北上大橋に近づくと風景は一変していました。津波が南岸の堤防を完全に破壊し、その側の住宅や建造物は倒壊していました。水面すれすれに設けられた仮設道路は、満潮の時間帯が近かったこともあって、路肩が水に浸っています。さらに、新北上大橋は北側4分の1程が押し流され、数百メートル上流にトラスの残骸が落ちていました。

 雄勝町市街地の被害はさらに壊滅的なものでした。学校や公民館など数棟を除き、建造物は跡形もなく消えていました。3階建ての観光施設だった建物の上に観光バスが乗り上げている、などという光景を目にするとは、全く想像していませんでした。時折行き交う緊急車両のほかは人影もほとんどありませんでした。

 同町のN家は、戦国末期以来の地域有力者で、2000年から5年間の北上町史編さん事業で1万2千点あまりの古文書を整理・撮影しました。津波でえぐられた波打ち際の道路を進んでたどり着いた、そのN家の江戸時代に立てられた主屋と土蔵は、礎石を残して跡形もなく消滅していました。そのような状況であろうことは、事前の航空写真などの情報で把握してはいました。一方、先ほどのH家の状況もあり、わずかな可能性に期待してもいました。しかし、現実に広がる光景はそれを容赦なく打ち砕くものでした。それでも、なんとか一点でも資料を見つけたいと、がれきの中を必死に探し続けたのでした。 

消滅したN家の土蔵跡
被災前の土蔵(07年4月)

 新北上大橋が落橋したため、北上川北岸の北上町へは一旦上流まで戻って川を渡ります。北上町も、橋より東側の地域は壊滅的な被害を受けていました。同町のK家の資料は、同町総合支所の方からの紹介で2年前に保全活動を行いましたが、津波で失われました。時間の関係ですべては今回は確認できませんでしたが、北上町史編さん事業の際に整理・撮影した他の古文書も、厳しい状況にあることは確実です。さらに、総合支所庁舎で保存されていた町史編さん時に収集した史料のデータベースを保管したサーバも、10メートルを超える津波に襲われた庁舎ごと失われてしまったとのことです。

 私事を記すことをお許しいただきたいのですが、私が宮城県で初めて本格的な自治体史編さん事業に参加したのが北上町史でした。事業では、今回訪れた北上町と雄勝町の所蔵者方で、所蔵者や地元の方々と協同でデジタル技術を活用した史料保全活動が行われ、調査成果の還元を常に行いながら編さんが進められました。ここで培われた保全活動のスタイルは、2003年に発足した宮城資料ネットによる「宮城方式」の原点の一つでもあります。その地域の史料のほとんどが消滅したという事実は、私自身にとっては人生の一部をもぎ取られてしまったのと同じです。それだけではなく、資料ネットにとっても原点となった地域の歴史資料の多くが、この大震災で永遠に失われてしまったのでした。
 
■関係者の無事・残されたデジタルデータ

 今回訪れた各地では、幸いなことに所蔵者や関係者の方々は全員御無事でした。所蔵者の方々は、全員が被災後一ヶ月近くたつ現在でも避難生活をされています。困難な状況にあることは想像に難くありませんが、訪問した私たちを快く迎えてくださり、再開を喜び合うことができました。

 また、雄勝町と北上町の所蔵者の方々からは、震災前に私たちがデジタル撮影を行っていたことに対する感謝のお言葉もいただきました。「史料は無くなってしまったが、その前にきちんと撮影しておいてもらってよかった」、「落ち着いたら、先生たちが保管しているデータをぜひ提供してほしい」。

 私たちはこの8年間、行政や市民の方々と協同で、全力で活動にとりくんできました。それでも今回の大震災までに、今回被災地となった地域のすべてをカバーすることはできませんでした。しかし、今回のケースでは、仙台にあるデータは震災を免れました。そのデータは、やがては所蔵者や地域へとお返しすることになります。なぜ「災害「前」の保全活動」を行わなければならかったのか、これからの活動にどのような意義があるのか、悲しい経験を通じて、私たちも改めて認識することになりました。

 震災後、いまこの瞬間も刻一刻と史料は失われつつあります。そのような史料を一点でも保全し、記録化してゆく。私たちは今回の経験を乗り越え、着実に活動を進めていこうと考えております。引き続きの御支援と御協力を、心よりお願い申し上げます。