101号 東日本大震災 被災地より(その2) 村田町・岩沼市・亘理町

救う―救済活動東日本大震災

 宮城資料ネット事務局の佐藤大介です。前号に対して、多くの方々より励ましのメールをいただきました。心より御礼申し上げます。一昨日7日夜には大きな余震がありました。3.11震災で損傷した文化財関係のさらなる被害も憂慮されます。

 今回も前回に引き続き、被災地での活動報告です。4月5日に宮城県南部の村田町、岩沼市、亘理町を視察してきました。

■仏壇からの資料保全-村田町(1)

 宮城県村田町は、江戸時代後期に紅花の産地として栄えました。町の中心部には土蔵造りの建物が多く残され、村田商人の繁栄を今に伝えています。「小京都」とも称される町並みは観光にも活用され、各地から多くの人々が訪れています。

 村田町も含め、内陸部の被害状況については報道でもあまり取り上げられることがありませんが、今回の震災で被害が懸念された地域の一つでしたので、4日午前中に視察を行いました。

 同町のO家文書は、村田町屈指の紅花商人であり、明治以降は地域の名望家として活動した同家の活動を示す数千点の古文書です。現在の御当主は県外にお住まいですが、建物や伝来の史料を町おこしに活用したいとのご意向により、建物は町に寄贈され観光施設として活用されています。一方、所蔵の古文書については筆者も含む東北地区の研究者有志が1999年に結成した奥羽史料調査会が、2003年から6年間をかけて整理と撮影を行いました。

 今回の震災に際しては、建物、さらにはその内部や土蔵に保管されていた整理済み史料の状況が憂慮されました。地震直後に行政の文化財担当の方に確認を依頼したところ、災害対応の合間をぬって、O家も含む蔵の町並みの被害状況について、すぐに詳細な情報を提供してくださいました。O家についても建物が倒壊を免れたこと、整理済みの史料が無事であることを早い段階で知ることができました。

 その一方、御当主と連絡をとったところ、震災直前に村田を訪れた際、仏壇の中に史料があるのを見つけた、持ち出そうかどうか迷ったが、次の機会にと思っていたところ今回の地震が起こってしまった、すぐに駆けつけたいが、現在の交通状況ではそれもできない、というお話がありました。余震が心配される状況でもあったので、我々で史料を保全することを申し出たところ、ぜひお願いしたいということで、今回の視察にあわせて対応することにしました。

 対象の史料は、事前に指示のあった場所に収められていました。念のためさらに仏壇を確認したところ、引き出しが数か所あり、中には江戸時代の古文書が多数確認されました。これらの史料は所蔵者の了承を得て、一旦仙台の事務局に搬出することにしました。


 建築士をしている今回の活動支援者の方によれば、O家の主屋はケヤキ製の柱1本が損傷しており、余震などによる倒壊を防ぐための応急処置が必要な状態との事でした。土蔵などに保管されている整理済みの史料は、当日の人員の制約や保管場所の雨漏り被害が確認できなかったことから一旦現状のままにしてきましたが、一昨日の余震も踏まえ、折り返し保全のための対応を行う予定です。

 前日の石巻市雄勝町での経験を経た筆者にとって、何より意義深かったのは、新しい史料が見つかったことではありません。未曾有の災害を免れた史料を、自らの手で救出することができたということです。所蔵者と行政の協力を得た今回の視察と史料保全活動で、今後の活動へ向けた活力を得ることができたのでした。

■震災被害から見えた村田の家造り-村田町(2)

 O家も含め、村田町中心部の土蔵造りの家屋の大半は、今回の震災により、土壁の亀裂や崩落、屋根瓦の落下、建物のゆがみなど、見た目では「大きな損傷」を受けたように見えます。前述の通り、O家も応急処置の必要な箇所がありますが、行政サイドでも被害調査を行ったとのことで、対応する方向で検討するとのことでした。


 一方で、支援者の方によれば、詳細な調査を行う必要があるが、O家も含め村田の土蔵造りの建物は、強固に固められた基礎、現在では入手がほぼ不可能であろう堅牢なケヤキの巨木を用いた柱などのおかげで、多くが致命的な損傷を免れたのではないか、とのことです。土壁の崩落は、以前から老朽化していた箇所が今回の震災で損傷したものであり、建物の構造自体に問題があるというわけではなさそうです。

 災害をきっかけに、先人の知恵と経験が浮き彫りになったということについては、メールニュース98号で奥州浜街道の事例を紹介しました。今回の事例についても、建主である村田の商人や、普請にあたった職人たちがどのような考えで家造りをしたかという事を、考えてみるきっかけとなりそうです。

 その一方、今回の損傷が一見して「目立つ」ものであることも確かです。前述した破損の特性は、所蔵者の方々も含め、現代に暮らす私たちの多くは認識していないため、実際には修覆は不可能だと判断してしまう場合が多いと思われます。応急診断による「危険」の赤紙は、伝統建築の解体に拍車をかけることになります。この問題についてはメールニュース99号で指摘しておりましたが、歴史資料を主な保全対象として活動してきた私たちがどのように関わり合っていくかは、まだ結論が出せていません。とはいえ、事態の深刻さをふまえ、ひとまずは応急修覆の方法などについて、専門家と相談しながら検討してきたいと考えております。

■先祖伝来の「宝」を維持する難しさ-岩沼市

 4日午後は岩沼市の視察を行いました。岩沼市では事前に事務局で所在を確認していた6軒の旧家について、地元の文化財保護委員の方にご案内いただいて訪問しました。各家の皆様には、災害下の突然の訪問にも関わらず快く対応していただきました。

 訪問した各家には、それぞれ土蔵や伝統技術で建てられた主屋などが残されていましたが、村田町と同じく土壁の崩落や損傷が目立ちました。中にはすでに応急危険度判定がなされ、「赤紙」(危険診断)が貼られたものもありました。とはいえ、こちらも致命的な損傷を受けた事例は少ないように見えます。所蔵者のお一人は、土壁は崩れたが、そのおかげで中の柱が健全なことがわかったから、取り壊さずに修理します、ということでした。

 一方で、自力での修覆が難しいこともまた確かです。阿武隈川沿いの旧家には、江戸時代の建物や蔵が残されています。家の方のお話では、これらは今回の震災以前から痛みが目立つようになっていた、先祖から伝わってきた建物だから大事にしたいという気持ちはあるが、これ以上個人で維持していくのは限界に近いというお話でした。

 仙台東部道路沿いにある別のお宅では、津波が庭にまで迫っていましたが、かつて地元特産品の集荷などにも使われたという倉庫や主屋などは大きな破損を免れました。しかし、地震で築100年以上の土蔵の壁が全面にわたり崩れてしまい、柱がむき出しになっていました。御当主によれば、修覆にお金がかかるだろうから解体せざるを得ない、とのお話でした。土蔵には多くの古文書などが保管されているとお話だったので、解体の際には我々に史料保全を行わせてほしい旨をお願いしてきました。

■津波が襲った阿武隈川河口の町-亘理町荒浜

 岩沼市とは阿武隈川を挟んだ南岸に位置する亘理町は、今回の大地震による津波被害が甚大だった地域です。今回の視察では、阿武隈川河口の荒浜地区を訪れました。


 ここには、数年前に古文書の調査におたずねしたM家があります。阿武隈川舟運の差配役を務めた同家の古文書は、一部が町の資料館に寄託されていますが、ご自宅には江戸時代後期から明治時代初めの舟運に関わる史料が残されていました。元の母屋を解体する際、処分するには惜しいのでとっておかれたというふすまの下張りです。私にとっては、下張り文書の解体と整理を初めて経験した調査であり、史料の中には故郷の福島県北地方のなじみ深い地名がたくさん出てくるという点でも、思い出にのこる活動でした。

 荒浜地区も、巨大津波の爪痕が各地で残されていました。前日の北上川と同様、高さ6~7メートルはある阿武隈川の土手は津波で大きくえぐり取られていました。M家の主屋はほぼ原型のままで残されていましたが、一階全体が浸水した跡が残っていました。家にはどなたもいらっしゃいませんでした。史料の所在は定かではありません。

 辺りのいくつかの家屋には、その中で犠牲となった方々を収容した目印である、白いテープで作った「×」印が貼られていました。私たち一行に声をかけてくれた地元の方のお話によれば、高齢者の方を中心に避難が遅れた方が多かったとのことです。M家の御当主は、津波の被災は免れ、避難所で元気にしていたが、その後疎開された先で亡くなられたらしい、との事でした。

 私たちは集落の一角に、用意していた献花を捧げ、帰路につきました。資料レスキューの成果と、所蔵者の方との悲しいお別れという、二つの経験をした視察となりました。