103号 石巻市・門脇地区での資料レスキューを実施

救う―救済活動東日本大震災

斎藤善之(宮城資料ネット副理事長)

 4月8日(金)、この度の震災後では資料ネットにとって事実上初めてとなる歴史資料のレスキュー活動を実施しました。この度の活動は、搬出を必要とする資料が車一台程度の限定的な分量となる見込みから、ネットの会員メンバーに事前に周知する形はとらず、事務局と一部会員とで実施いたしました。この活動は今後、より広範かつ大規模に実施されることになるレスキュー活動に先行することを意識しつつ実施されました。
 
 今回、レスキューの対象となったのは、先のネット・ニュース100号の被災地レポート「大津波に耐えた土蔵-石巻市街地・4月4日」において報告されていた石巻市・門脇地区のH家です。

 なお斎藤は、すでに十年前ほど前からH家には度々訪問し、その所蔵資料の一部については整理のうえで翻刻史料集を刊行しており(斎藤善之著『石巻市門脇・武山六右衛門家文書』石巻千石船の会編、2006年)、同家とその所蔵資料の概要についてはそちらをご参照いただければと思います。

 当日は、前夜(7日深夜)に発生した大規模な余震により、仙台東部道路と三陸自動車道が不通となり、各所で渋滞が発生したため、石巻到着は予定より2時間ほど遅れました。石巻市に入ると西部の蛇田地区から徐々に道路脇に浸水の跡が見られ始め、駅前周辺に至ると町並みの前面に積み上げられた震災ゴミの量の多さに驚かされました。12時頃、避難所になっている石巻市立図書館に到着し、そこで東北歴史博物館のメンバーと合流、そこからは石巻文化センターの佐々木淳氏の先導で門脇のH家に向かいました。門脇地区に踏み込むと、見渡すばかり一面の瓦礫の原、その中に点々と残る建物、とりわけ火災に焼けただれた門脇小学校、焼け跡と海泥の匂い、とにかくその凄まじさには言葉を失いました。

 門脇地区の日和山の麓にあるH家は、かつては2棟の住宅、2棟の土蔵、さらに醸造蔵だった大きな倉庫と板蔵が並ぶ広壮な屋敷が印象的でしたが、今回の津波によって土蔵1棟を除いて全てが倒壊あるいは流失し、あたりは一面瓦礫の原になってしまっていました。1棟だけ残った土蔵も、震災当初は、押し寄せた瓦礫の山に埋もれるようになっていたため、倒壊したものとみられましたが、瓦礫を取りのけるにつれて、意外にもほとんど当時のままの姿であることがわかりました。土蔵は外壁に損傷が見られ、内部も1階部分は天井付近まで浸水したものの、2階部分は窓から若干の海水が滲入しただけで床上までは海水が上がらなかったため、2階に置いてあった古文書や書籍、道具類はほとんど無事でした。これらの文書は一時は土蔵とともにすべて失われたものと思われただけに、その無事は奇蹟的なものと思われました。

H家の土蔵(撮影・斎藤秀一/以下同)
土蔵に入る救援隊
被災を免れた史料

 レスキュー作業は、斎藤がかつて整理した古文書段ボール3箱と、郷土史家・橋本晶氏(故人)が蒐集した筆写資料ファイル段ボール3箱分ほどの保全を予定して実施しましたが、土蔵内を改めて精査してみると、そのほかにこれまで未調査であったH家の醸造関係史料(帳簿や書簡類)の存在が確認されたため、これらすべてを搬出することとしました。最終的に保全された資料の総量は段ボール60箱余にも及び、そのほかに古文書が下張りに貼り込まれた襖や額20点余もあわせて搬出しました。これら保全資料は東北歴史博物館に一時保管されることになり、同館のバンに積み込まれ移送されました。こうして約3時間にわたるレスキュー作業は終了しました。

土蔵二階から史料を下ろす
土蔵から史料を搬出
史料の積み込み

 現地を退去するに際し、改めて土蔵を眺めました。かつては3棟並びで建っていた土蔵でしたが、隣の1棟は倒壊してその姿はなく、この土蔵だけがさほどの損傷もなく一面の瓦礫の中でポツンと立っている姿は、印象的としか言いようがありませんでした。未曾有の大震災のなかで同家と地域の歴史の資料を守り抜いた土蔵は、それ自体貴重な震災の記憶の象徴なのではないかと思われてなりませんでした。

がれきの山にたたずむ土蔵

 今回の活動に参加したメンバーは、ネット会員の斎藤善之、千葉正樹、千葉真弓、斎藤秀一、東北歴史博物館から塩田達也、籠橋俊光、事務局から佐藤大介、天野真志、蝦名裕一の各氏(合計9人)でした。