104号 歌津魚竜館展示資料レスキュー報告

救う―救済活動東日本大震災

宮城資料ネット会員(東北大学埋蔵文化財調査室)藤沢 敦

 4月13日(水)に、南三陸町の歌津魚竜館の展示資料をレスキューする活動が行われました。東北大学総合学術博物館の活動として実施されましたが、資料ネットの会員である藤沢が所属する東北大学埋蔵文化財調査室に総合博から協力要請があり、藤沢も一緒に行ってきましたので、活動内容を報告いたします。今後の文化財レスキュー活動の参考にしていただければ幸いです。

 南三陸町の旧歌津町地区には、ウタツギョリュウ、クダノハマギョリュウ、ホソウラギョリュウという、時期の異なる魚竜化石が発見されており、これらは極めて貴重な自然史資料となっています。歌津魚竜館は、これら化石資料をはじめ、旧歌津町内の考古資料、民俗資料を展示する施設として、管の浜漁港の一角にあります。本館は1階が物産コーナーで、2階が展示室となっています。本館の裏側に、クダノハマギョリュウ化石が、発見された状態で、そのまま見学できる施設が併設されています。

 東北大学総合学術博物館の佐々木理先生(古生物学)たちが、3月中に状況調査に入られ、かなりの展示資料が残されていることが確認されていました。この貴重な資料をまもるため、できるだけ早急に動きたいとの総合博関係者の強い意向から、13日に総合学術博物館の活動としてレスキュー活動が行われました。考古資料も展示されていたことから、総合博から東北大学埋蔵文化財調査室に協力依頼がなされ、埋文調査室も協力して実施することとなりました。 総合学術博物館からは佐々木先生はじめ合計4名、埋蔵文化財調査室からは2名が参加しました。宮城県文化財保護課からは2名の担当者が参加し、当日の午前中に南三陸町教育委員会の担当者と必要な連絡調整を行って下さいました。また、文化庁の文化財等救援事業の現地本部の担当者の方も、県保護課の方に同行して来られました。午後1時に現地に集合し、地元で館の管理をされていた方に立ち会っていただき、ただちに活動を開始しました。

 魚竜館の建物は、津波で完全に水没したと思われ、隣接する施設の屋上には自家用車が何台も載っていました。建物自体は、窓などの開口部は完全に壊されていますが、柱・壁・床などの構造体は残っていました。2階の展示室は、大きな窓が片方の妻側とその脇にあるだけで、側面には片方の海側にごく小さな窓があるという、開口部が少ない構造でした。展示室内は完全に水没し、展示ケースも大きく移動し、ほとんど転倒していましたが、外に流れ出したものは少なかったと思われます。周辺の建物や施設は、全て海側に倒れており、引き波によって大きく破壊されたと思われます。展示室の妻側の窓は、引き波の方向とは異なっていたため、流出が少なかった可能性もあります。そのため、奇跡的にほとんどの展示資料が、室内に残されたものと推測されます。展示室内には、砂が数センチ堆積していた以外は、細かな漂流物は入り込んでいましたが、大きながれきは入っていませんでした。これも開口部が小さかったことが幸いした可能性があります。

歌津魚竜館の現状(写真提供・藤沢敦)
2階展示室から見る入里前湾(同左)
2階展示室の様子(同左)

 極めて重い化石資料や、民俗資料として貴重な「カッコ船」など、機械を持ち込まないと運び出せないものを除き、運べる資料は展示パネル類も含めて搬出しました。展示資料には、テープラベルで整理番号が1点づつ付けられており、ほとんどの資料でこのテープラベルが残っています。これら資料のリストは南三陸町教育委員会から提供していただいており、番号をもとにリストと照合する作業を今後進めます。詳細な照合はこれからですが、考古資料に関しては、田茂川貝塚出土の縄文時代の石鏃が刺さった鯨骨、田束山経塚出土の三筋壺などの特に重要な資料は、残っていたことが確認できています。現地での作業は午後4時すぎに終了し、車3台で東北大学へ運搬しました。

 今回の地震津波被害に伴う文化財のレスキュー活動は、困難な活動になると実感しました。魚竜館に到着した最初の感想は、「これは怖いな」というものでした。海にすぐ面した場所ですので、大きな余震で津波が発生した場合、極めて危険な場所となります。実際に4月7日の余震では、宮城県沿岸に一時津波警報が発令されています。ラジオを大音量でつけ、地震・津波の情報があればすぐに退避できるように備えながらの活動となりました。津波が侵入した建物内部の破損状況もひどく、大きな余震があれば、様々なものが落ちてきかねない状況です。余震の回数も多く、その規模も大きい状態が続いています。その中での津波被害建物内での作業には、これまで以上に安全対策に留意する必要があると痛感しました。今回の魚竜館では、幸いなことに油の漂着は見られませんでした。しかし大きな港に隣接する地区などでは、津波とともに重油などの油が流れ込んでいる事例もあると推測されます。その場合には、被災文化財のレスキュー活動は、さらに困難な作業になると思われます。

 今回は、登米市東和地区から国道398号線(本吉街道)で水界峠を越えるルートで南三陸町に入りました。峠を越えて少し進んだ入谷地区の付近まで津波がおよんでおり、その先は延々とがれきが続きます。被害の広さは報道で知っているつもりでしたが、実際に目にすると、ただ言葉を失います。被害範囲が広すぎるため、主要道路以外でのがれきの撤去は、ほとんど進んでいないという印象を受けました。がれきの撤去だけでも、まだまだ時間がかかるのは間違いなく、復興までの道のりの長さが想像されます。被災文化財のレスキューは、当面は緊急の対応が続くと思います。その一方で、救援した文化財を再び地元に返すまでには、長い時間が必要となると思われます。そのことを見据えた、息の長い取り組みも必要であることを感じさせられる活動となりました。

水損した帳簿資料への応急処置
(撮影・宮城資料ネット事務局)

(追記)
 14日に、埋蔵文化財調査室にて、考古資料についてリストとの照合を行いました。リストに掲載された考古資料144点、1点の欠損もなく救援できたことが確認されました。考古資料の大部分が、もっとも奥まった、窓のない部屋に展示されていたためと思われます。

(追記その2)
 被災した資料の中に、文政年間(1818-30)の、地元の漁業経営に関わる帳簿1点がありました。佐々木理さんからの相談を受けた事務局では、資料をお預かりして、早速応急処置に取りかかっています。(事務局・佐藤記)