118号 東日本大震災 石巻市門脇・本間家の被災土蔵をめぐって

救う―救済活動東日本大震災

斎藤善之(宮城資料ネット副理事長)

(*本紙面では、本間家をH家と表記してまいりましたが、ご当主のご了解を得て実名表記とさせていただきます。)

門脇地区の惨状と本間家の土蔵 4月7日・斎藤秀一氏撮影

 石巻市門脇地区に残された1棟の土蔵。押し寄せた津波に耐え、瓦礫に埋もれるようして残ったこの土蔵の2階には多数の歴史資料が無傷で残されていました。

 私たちはこの度の大震災のなか奇蹟的に残ったこの土蔵を、未曾有の大震災の記憶を後世に伝えるためにも歴史遺産として残せないだろうかと考え、その保全に向けた活動を始めています。以下では、この土蔵をめぐる震災前後の経緯を改めてふりかえり、その存在の意義について考えます。

■大震災前の本間家

 本間家は、江戸時代には石巻を代表する千石船の船主として活躍した武山家の流れを継承する家です。武山家は明治時代になると廻船業から撤退しますが、手広く金融業を営むかたわら、三陸商社や米商会社、石巻商業講習社などの設立に関わるなど、当地の産業の近代化に尽力しました。あわせて戸長、町会議員、郡会議員、石巻町長などの公職も歴任しています。

 明治18(1885)年頃、同地の勝又家が所持していた味噌醤油醸造の設備を買い取り、味噌醤油醸造業にも乗り出しました。これは順調に発展し、その後明治30(1897)年頃には、後町に新たに醸造工場を建設しました。これが現在の本間家の敷地となっています。昭和初期に描かれた絵図には当時の同家の繁栄ぶりが描かれています。

 しかしながら昭和元年、武山家の当主の死去によって武山家は断絶し、当主の娘(四女)の嫁ぎ先の本間家が武山家の醸造工場と土地家屋を継承することになりました。その後、本間家による醸造業経営は戦後まで継続していましたが、昭和45(1970)年に廃業となりました。その後もこの敷地と主要建物は残され、本間家の住居となっていましたが、今回の大震災によって、赤丸で囲んだ土蔵以外の建物はすべて倒壊流失してしまいました。

武山商店・本間家の醸造所の景観(昭和初年)
赤丸で囲んだのは今回の大震災後、唯一残った土蔵


 なお斎藤は1997年夏頃から本間家との関係をもつようになり、今回残った土蔵の2階に保存されていた武山家の古文書(江戸時代の廻船関係文書)の解読をおこない、それをとりまとめた『石巻湊門脇・武山六右衛門家文書』を2006年に刊行しています。

また絵図では一番奥の山沿いに見える大きな倉庫は、かつての醸造蔵でしたが、石巻千石船の会が中心となって平成9年に製作しされた復元模型船(千石船)の若宮丸の保管庫に使われておりました。

■3月11日大震災発生と本間家

 今回の大震災の津波により、見渡す限りの瓦礫の原となってしまった石巻市門脇地区の様子は、当初は繰り返し流された報道の映像でその様子を窺い知るだけであり、その後、本会の事務局が震災後の衛星写真の分析から沿岸地域の被災状況の把握に勤めましたが、それによると門脇の本間家の一帯は壊滅しており、また本間家の御家族の安否も分かりませんでした。

 その後3月20日頃になって、ご当主の携帯の通話が初めて繋がり、御家族のご無事が確認されました。津波の時には裏山(日和山)の斜面に逃れ、その後は山際にあるテニスコートの事務所小屋に寝泊まりされているとのことでした。家屋や土蔵は全て倒壊流失し、古文書なども消滅したということでした。その数日後、再び通話した際には、古文書を入れていた土蔵だけが瓦礫のなかから無事な姿を現したこと、土蔵の1階部分は天井付近まで冠水したが、2階部分は無事で、古文書なども残っているとの情報がもたらされました。この時点で歴史資料の保全の必要性を認識しましたが、仙台でもガソリンなどが入手困難で、しばらくはレスキュー活動に取りかかることはできませんでした。

■4月上旬の現地調査と資料保全

 3月末頃になってようやく仙台でもガソリンが入手できるようになり、まず4月4日、本会の平川理事長と事務局の4名が現地を訪れ、本間家を含む門脇地区の深刻な被災状況を把握しました(ネットニュース第100号を参照)。それをうけて4月7日には、ネットの会員ら11人によって本間家の所蔵資料の保全活動(レスキュー)が実施されました(ネットニュース第103号を参照)。またその模様は河北新報(4月17日版)の紙面でも報道されております。

土蔵の様子(4月12日の調査時)

 こうして本間家の土蔵の歴史資料はとりあえず保全できましたが、土蔵については、ご当主によれば、破損が建物構造に及んでいるおそれもあり、取り壊さざるをえないであろうとのことでした。

 しかしながらこれだけ甚大な被害を被った門脇地区にあって、瓦礫の中にポツンと佇む土蔵の光景は余りにも象徴的なものがあり、奇蹟的に残った120年前の歴史の証人でもある土蔵を、この度の震災を後世に伝えるためにも、何とかして保存し後世に伝えることはできないものかということが、平川理事長から提起され、私たちの間で話し合われました。なお他にも同様の物件があることから、ともかく建築の専門家の診断が必要であろうとのことで、4月11日には平川理事長から福島市の佐藤敏宏氏(一級建築士)に対して、被災建築物の調査と修復への助言をするアドバイザー就任の要請がなされ、以後の私たちの活動において佐藤氏の全面的なご協力が得られることになりました。

■4月12日 建築チームの現地調査

 佐藤敏宏氏をリーダーとして、金沢から橋本浩司氏(古建築修復の専門家)ならびに中村彩氏(造園家)、京都から満田衛資氏(建築構造の専門家)が当地に駆けつけてくださり、急ごしらえながら意欲的な建築調査チームが結成されました。そこに私たちが同行する形で、4月12日から3日間にわたる建築被害調査が実施されました。その内容と成果についてはネット・ニュースの第111号(佐藤敏宏氏の寄稿)、および第112号(橋本浩司氏の寄稿)に的確に記されておりますのでご参照ください。

 4月12日に実施された本間家の土蔵の被害調査の結果によれば、幸いにも柱と梁の軸組み部分(基本構造)には損傷はみられず、瓦および垂木と母屋に部分的破損がみられるが補修は十分可能であること、さらに長期的には剥落した漆喰・海鼠壁の補修が必要、といったアドバイスが示されました。

 この調査チームの所見は、当日現場でご当主に口頭で伝えられ、これをふまえご当主は、とりあえず現在進められている自衛隊による瓦礫撤去にあわせての土蔵の取り壊しは見合わせたい、とのご意向が示されました。これにより目前に迫った土蔵取り壊しはひとまず回避されることになりました。

■4月17日(その1) 土蔵の現況

 その後、建築物調査チームは短期間のうちに多数の被災物件の調査と応急的補修をこなしてくれましたが、本間家の土蔵についての調査報告書も作成してくれましたので、これを持参するとともに、現地の最新の状況を確認するため、斎藤が4月17日、現地を再訪しました。

 門脇地区を埋め尽くす膨大な瓦礫は、まだ至る所に残っていましたが、本間家の土蔵の周りの瓦礫は、この数日の間にも取り片付けが進んでいることが窺えました。

 私の訪問に対し、ご当主は4月7日の建築家のアドバイスもあり、その後、現場で瓦礫撤去にあたる自衛隊チームに「とりあえず土蔵は撤去しない」という考えを示し、土蔵だけは撤去から除外してもらったとのとのことでした。こうして周辺の瓦礫が取りのけられたなか、土蔵がさらに鮮明にその姿を現しておりました。

 土蔵を見ててもらうと、入ると驚いたことに、浸水した土蔵の床板が上げられ、床下に入り込んだ汚泥(とパルプ屑。これは近くの製紙工場から流出したとみられる)がきれいに掻き出され、土蔵の床下に風を入れて乾燥させているところでした。被災され大変不便な生活をされているご当主と、仙台から駆けつけられた弟さんとでこの作業をされたとのことで、一度は土蔵を取り壊すことを考えたというご当主自らこの作業にあたられたことに、ご当主の土蔵への愛着を改めて窺い知らされ感銘を受けました。それとともに、建築チームの診断がご当主の土蔵への思いを甦らせた、この日の作業に繋がったのではないかとも感じました。

土蔵の内部(入口付近) 床が上げられている
(1階奥) 4月17日時点

 それとともにこの土蔵を残すためには、破損部分の応急補修のための手立て(作業従事者と経費の手当て)をできるだけ早く講じていく必要性があることも強く感じさせられました。

■4月17日(その2) 倉庫の解体と若宮丸の廃棄

 いっぽうで本間家のなかで偉容を誇っていた大型倉庫(旧醸造蔵)については、津波によって大きく損壊し、そこにあった若宮丸も瓦礫に埋もれ破損していました。

大型倉庫の破損状況(4月7日時点)
内部の若宮丸の状況(同日)

 4月12日の建築診断の際には、建築チームによって崩れた倉庫から若宮丸を搬出が可能かどうかが検討されましたが、倉庫の状態が倒壊寸前であること、そこから若宮丸を引き出すことは人力だけでは到底無理であるなどのことから、搬出は断念されました。

瓦礫の上に若宮丸の壊れた船体が(4月17日)

 その後、4月17日に斎藤が訪問した時点では、状況は一挙に変動してしまいました。自衛隊による瓦礫撤去は進展し、まず大型倉庫は解体されてすでに形がなく、その廃材がうずたかく積み上げられた瓦礫の山の上に、壊れた若宮丸の壊れた船体が積み上げられているのが確認されました。ご当主によると、大型倉庫の解体に際して、若宮丸を引き出すことができないか、瓦礫撤去の現場担当者と検討してみたとのことですが、倉庫は解体が始まると簡単に崩壊してしまい、若宮丸はそのなかで潰されてしまったとのことで、結局引き出すことはできなかったということでした。

 石巻市民の募金によって作られ、市民祭りの際には街中に引き出されて引き回され、市民に愛されてきた若宮丸をレスキューすることはできませんでした。瓦礫の山の上のその無惨な姿は、今回の東日本大震災の悲惨さをまさに象徴するものと思われました。

■石巻市門脇の震災被害を記憶するために  本間家の震災土蔵の保存にご支援を

 本間家の土蔵ならびに若宮丸については、以上のような経緯で、なお現在も事態は進行中です。土蔵の古文書はいちおう保全されましたが、土蔵じたいの保全に関しては、私たちの思いに応えてくださる形で、ご当主も当初の解体から保全へと方針を転換してくださるに至っておりますが、これが保全できるかどうかは、なお未確定であるといわざるを得ません。特に屋根付近の破損部分から雨水が建物構造に浸透するおそれがあり、その補修が緊急に必要であること、さらには外壁の漆喰壁・海鼠壁についてもなるべく早い補修が必要とされています。

 しかしながらご当主からは、土蔵を除く自宅が全壊し、事業所の小屋に寝泊まりする状況にあって、補修のための費用を負担することは難しいとの事情にあることも伝えられております。

 これは被災地の所蔵者に共通する事情でもあり、歴史資料のみならず建物など文化財の保全のための補修費用をどのように手当したらよいのかは、私たちの今後の活動にとっても極めて重要な課題になることは明らかです。この対策については本ネットでもすでに検討を始めていますが、ボランティアベースで活動するNPO法人たる本ネットにおいては、これに対応するには限界があります。なんとか広く全国的で組織的な支援が求められていることを訴えたいと思います。

 未曾有の震災の被害を後世に長く伝えるために
 本間家の被災土蔵の保全に向けて、皆さまのご支援をお願いいたします!。