124号 東日本大震災 流れ着いた古文書箱-宮城県女川町
2011.05.19
事務局の佐藤大介です。5月12日木曜日、事務局では女川町教育委員会文化財保護係の依頼を受け、今回の大津波で水損した古文書史料の引き取りにうかがいました。
対象となった古文書は、町の文化財に指定されていた江戸時代の古文書の一部です。3月11日の大津波で、所蔵者のご自宅は、古文書を収めていた土蔵も含めすべての施設が跡形もなく消滅してしまいました。集落全体も壊滅しました(航空写真による)。幸い所蔵者の方は無事で、現在は町外に避難されています。
この古文書が見つかった経緯は、担当者の方によれば次の通りです。古文書が町役場に届けられたのは、津波から40日あまりが経過した4月28日のことです。届けてくださったのは、所蔵者宅と入り江を挟んで対岸にある集落の方です。この地区も津波で壊滅しました。住民の方々は高台にある避難所から日々集落に降りて、自宅のあった場所などで物品を捜索されていました。その中で、あるお宅の敷地に流れ着いていた茶箱一箱から古文書が見つかったのです。貴重なものだと判断されたその家の方は、偶然集落を通りかかった運送業者に、茶箱を町教育委員会に届けるよう託したそうです。女川町中心部の町役場も津波で壊滅したため、古文書は役場の避難先となっている女川町総合運動場に届けられたのでした。
古文書を託された町では応急処置を行っていましたが、避難所対応が最優先されるという事情もあり、石巻古文書の会の庄司惠一さんを通じて5月7日に本会にレスキュー要請がありました。
私事ながら、引き取り当日の木曜日は大学の非常勤講師一コマを受け持っているため、当日明け方まで講義の準備を行い、午前中の講義を済ませた後、東京から駆けつけた本会会員の高橋美貴さんとともに女川町に急行しました。
女川町に向かう途中の石巻市湊地区や渡波地区は、がれき撤去もまだ余り進んでいません。女川町中心部は、報道でもたびたび紹介されたように鉄筋コンクリートのビルが根こそぎ倒れるなど壊滅的な状況です。高台にある町総合運動場には大勢の避難者がいらっしゃいました。
避難所対応などの合間に私たちを迎えてくださった担当者の方は、一部とはいえ古文書が見つかってよかったと、涙ぐみながら私たちに話してくれました。茶箱の中の封筒は、津波から2ヶ月以上立ってもまだ濡れたままで、一部にカビが生えかけていました。所蔵者の方からは町役場を通じて私たちが保全を行うことに了承をいただいているとのことでしたので、私たちは茶箱をお預かりし、すぐに仙台に引き返しました。これらの資料は、ネットニュース120号・121号で紹介した大船渡市S家資料や、5月10日に事務局に持ち込まれた石巻市内の水損古文書とともに冷凍処理を行うため、14日に今回の津波による水損資料の処理を引き受けていただいている奈良文化財研究所の協力企業である奈良市場冷蔵株式会社に向け発送されました。所蔵者の方とは後日連絡が取れ、古文書のことはあきらめていたが少しでも残ってよかった、応急処置をしてくれてありがたいとのお話がありました。
古文書が入っていた茶箱はどこにでもあるもので、ふたが密閉されていた様子もありません。さらに搬出しようと持ち上げたところ、底の一部の板が抜けそうになっていました。鉄筋コンクリートのビルもなぎ倒した津波の中、どうして茶箱が壊れたり、ふたが外れてしまわなかったのか不思議でなりません。担当者の方とも、この古文書が残ったのは奇跡としかいいようがないという意見で一致しました。
しかし、なによりも強調したいのは、今回の古文書が、自宅の流出、集落の壊滅という過酷な状況の中にある地元の住民の方から届けられたという事です。自らの生活の立て直しさえ困難な状況の中、自らの所蔵品ではないにもかかわらず、見つかった古文書資料の価値に心を留め、適切な対応をしてくださったということには、正直感動を禁じ得ません。地域の人々によって命をつなぎ止められた古文書史料の保全に関われることは大変な誇りであるとともに、この史料を「千年後」まで伝えていくため、全力を尽くさなければならないという責任の重さも強く感じました。
町の担当者の方々は、高台や島にある資料は無事なので、避難者対応の合間を見ながら、できるだけ早く自分たちの手で状況を確認し対応したいということでした。本法人としてもこのような思いに応え、引き続き女川町での保全活動に協力していくことにしております。