141号 よみがえれ苔の庭園-岩手県大船渡市

救う―救済活動東日本大震災

 事務局佐藤大介です。7月1日・2日に引き続き、7月9日・10日に実施した大船渡市C家の被災調査および建築班による測量について報告します。

 C家は戦国時代末期からの旧家で、江戸時代以降は網元や山林経営を行ってきました。同家にはその活動を示す膨大な古文書資料が所蔵されており、2005年より斎藤善之さん主催の三陸古文書研究会(三陸研)で整理が進められています。宮城資料ネットもこの活動に協力しております。


 一方、同家は江戸時代の部材を再利用した1939年建築の主屋と、江戸時代築と推定される土蔵、さらには1784年(天明4)修覆の刻印が刻まれた石段を持つ「持仏堂」と呼ばれる先祖代々を祭ったお堂の古建築が残っています。海抜10メートルほどの切り立った高台の上にある同家は、明治や昭和の三陸津波でも被災することはありませんでした。しかし、今回の津波では主屋の床上まで浸水したとのことです。土蔵二階にあった古文書は被災を免れましたが、主屋の東側に設けられていた坪庭の塀がすべて流され、土蔵や持仏堂も基礎部分が被災しました。さらには、苔が一面に敷き詰められていた庭も津波での被害を受けました。(右絵:土蔵の被害調査)

 去る5月1日に実施した宮城資料ネットの被災状況調査では、主に持仏堂の雨樋と基礎部分の応急処置を実施しました。今回の活動では、全体的な被災状況の確認と共に、貴重な古建築を将来に伝えるための基礎作業として、建物及び庭の実測調査を実施し、建物の記録を作成することとしました。 

 建築班の作業には事務局より佐藤と、建築班の佐藤敏宏さん、今回の被災建物調査で全面的なバックアップを得ている金沢の建築家橋本浩司さん、中村彩さん、武藤清秀さん、野田直希さん、さらに京都で造園に関わる武廣健さんの7名で実施しました。今回の日程に合わせて千田家の後片付けボランティアを行った三陸研9名からも作業サポートを得ました。


 作業では主屋、土蔵、持仏堂を実測し、平面および立面の野帳を作成する一方、庭については広さに加え、石垣の配置、庭石の角度や池の構造までも詳細に記録化しました。私は主屋床板の修繕に加え、野田さんの指導により持仏堂の立面図測定を担当しました。三陸研の一員として古文書調査に参加し、何度も持仏堂は拝見させていただきましたが、今回の建築班の作業で、同家のまさに中心ともいえる施設の測量を経験することができました。尺目盛りでの測量に神経を使いつつ、古文書や建築を現代まで継承してきた代々の方々のことがより身近に感じられたような気がしました。(右絵:持仏堂展開図測量)


 C家建物の被災状況ですが、武藤さんによれば土蔵の柱に一部腐朽が見られるとのことでした。しかし、全般的には今回痛んだ部分は地震ではなく、それまでの経年劣化が主な原因だとのことです。古文書調査の折々に御当主から見せていただいた、隙間なく閉まる持仏堂内部の御厨の扉も、今回も寸分の狂いなくでした。「気仙大工」として知られる地域の職人衆が腕をふるったC家の建築は、今回の大地震でも構造にほとんど被害がなかったことが明らかになったのでした。(絵左:庭石垣の測量)

 一方、庭を担当した中村さん、武廣さんからは、庭がいかに大切にされてきたかが、調査でよくわかったとのことです。さらに、被災した苔も持仏堂の裏側などで復活していました。坪庭の修覆と合わせ、代々の当主が数寄を凝らし、現代の当主が丹精込めて維持してきた庭園、そのシンボルとなる苔の庭をどのように蘇らせるかが、今後の課題となりそうです。


 なお、作業中に土蔵一階から新たに江戸時代のものと見られる屏風6双が確認されたため、建築班により仙台の事務局に搬出しました。これらは7月19日、事務局を訪問された京都造形大の内田俊秀さんにより、やはり江戸時代のものと確認されました。こちらの応急処置についても引き続き関係者からのご協力を得て対応することにしております。 (右絵:庭土を掘り造園の履歴を調べる)