142号 7月13・14日レスキュー参加記

救う―救済活動東日本大震災

東京大学史料編纂所 遠藤基郎

   
 梅雨のあけ直後の7月13・14日、私は亘理町・涌谷町2箇所のレスキューに参加した。7月13日は亘理町荒浜のE家の救出作業。同家は、阿武隈川河口付近、堤防脇にあった。堤防土手頂上に設けられた1メートル余りのコンクリート壁が200メートル以上失われ、土嚢で応急措置が施されている。津波が凄まじい力で堤防を乗り越えた痕跡であった。


E家より海側は、すでにほとんど更地となっていた。近くでは重機が建物を破壊するガガガッという音、そして瓦礫を運ぶダンプの重いエンジン音。更地の彼方には瓦礫の山の上に、何台ものパワーショベルがあがり、更に瓦礫を積み上げる様子が見える。瓦礫の山の脇には津波に耐えたであろう5階建てのビルが見えるが、瓦礫の山はその4階部分に達していたであろうか。それは人間の生活の痕跡=歴史の無秩序な固まりの極みであった。(右絵:土蔵からの資料レスキュー)

E家は旧商家である。ご当主のお話によると、江戸末期に荒浜に土着し、質屋などの商業を営み、かつては亘理町および隣接する岩沼市沿岸に広大な土地を所有した近代地主であったという。江戸・明治の亘理町は、阿武隈川水運と太平洋海運との結節点として栄えたというから、地域全体の豊かさこそが、E家の繁栄を支えたと思われる。

その所蔵資料、ということは今回の救出資料は、地域の資産家としての家の事業に関わる近代文書である。さらに書画・什器あるいは調度類など、美術・工芸品、そして近代文豪の原稿コレクションや各当主の集めた膨大な書籍群があった。地域名望家の文化的役割を示す貴重な資料である。

 救出対象品目が多数に昇り、亘理町教育委員会、文化財等救援委員会(文化庁)、宮城資料ネット合同活動として行われた。拠点は亘理町郷土資料館(悠里館)である。救援委員会は、奈良国立文化財研究所・東京国立文化財研究所あるいは全国の博物館よりの派遣館員など、20名以上の人員で構成される。さらに奈良国立文化財研究所より資料運送専用トラックも派遣された。今回、宮城資料ネットは救出事業のサポートという形での参加となった。

 E家現地より搬送作業と、それを一時保管する悠里館での応急措置、二つのグループに分けて救出作業は実施された。私自身は、現地搬送作業に属した。母屋・見世蔵・土蔵1階部分が完全に浸水していた。外壁白壁部分が無惨に崩れ落ちた土蔵の中から人海戦術で運び出され、照りつける太陽の下、広げられたブルーシートの上、いっぱいに文書類・扁額・襖・置物が並べられる。30度を超える暑さに、作業者の熱中症が心配されたが、雨により作業が中止されるよりは、格段に増しと言えただろう。
 今回の救出作業で特に触れるべきは、二つある。
 ひとつめは、居住母屋内部にあった明治の地図および土地証文である。これはご当主の記憶をもとに探索されたものであった。ご当主の指し示された母屋の一角、古い金庫のある納戸とおぼしき場所には、ペットボトル・雑誌・手芸用品など汚れた海水に浸かった品々が層をなしていた。それら堆積物を文字通りかき出した、一番底に貴重な資料類は残されていた。作業途中、記憶違いではと不安な想いがご当主・ネットメンバーによぎらないではなかった中での「成果」に、みな安堵した。とともに、ご当主の記憶の確かさ、すなわちご自身の家の歴史資料への愛着こそが、貴重な歴史資料を後世に伝える力となっていたことに気づかせられた。


 いまひとつは、土蔵内部のタンス引き出しの中から発見された資料類である。これは撤収前の最終確認作業中に発見されたものである。引き出しは、震災当日に押し寄せた海水がそのまま残った状態であり、真っ黒なヘドロ状の水につかった文書と写真とおぼしい資料があった。(右絵:土蔵一階で発見された引き出し)

 特に惨憺たる状態にあった写真とおぼしき資料については、文化財等救援委員会の修理専門家によって、悠里館において応急措置が施された。その結果、それは昭和初めの絵はがきであることが確認された。また他の資料についても凍結乾燥他で十分、救済可能であるとの診断。ぎりぎりのところで資料を救出しできたことに、資料レスキューの意義をあらためて感じた。

 今回の作業は、文化財等救援委員会の手によって、人手あるいは輸送方法を短期間に大量に投入したものであった。資料レスキュー事業全体としては、複数グループが関わることで伴う問題点はあるのであろうが、緊急性という点においては、有意義であったように感じた。もちろん、修復・管理、そして活用という今後の長い長い道のりにこそ、なお困難があることは言うまでもないのだが。

 夕刻、作業終了後、搬送作業グループはご所蔵者に挨拶をして、E家をあとにした。ご当主は、一般書籍も多数所有されていたが、それらも全て廃棄せざるを得ないことを悔しそうに語っておられた。近日中の取り壊しに立ち会うであろうご当主の心中を察するに余りあるものがあった。


14日は、涌谷町のN家であった。同家は、「月将館」(涌谷伊達家の郷校)の教官を務められた家である。今回の作業は、ご当主よりの連絡によるものであり、翌15日取り壊し直前の作業となった。(右絵:欄間の揮毫を取り外す)

内陸にある涌谷町は海岸部と比べるともちろん地震被害は少ない。古川から涌谷への路上で見る限りでも、電信柱の傾斜、一部家屋の損壊、そして道路の隆起など、地震の傷跡は見られた。築120年以上というN家は、一部天井が崩れ落ち、ところどころ柱が歪んだ状態であった。近隣の住宅にはほとんど被害が無く、N家のみが甚大な被害をうけている様は、そこだけ異空間であるような不思議な光景であった。

今回のレスキューは、近世の古文書・短冊・手習資料、書画・襖(下張り文書あり)・額、そして弓など古い道具類の搬出である。旧家ゆえに天井は低く、ヘルメットがいくたびか鴨居にぶつかる。改めてヘルメットの必要性を痛感した。

 亘理E家と同じく、N家の場合も、美術・文芸資料は多い。一般的な歴史の立場からはどうしても副次的な扱いとなってしまうことが多いが、あらためてこうした資料をどのように位置付けるべきかという問題を私なりに考えるよい機会になったと思う。おそらく近世・近代研究者にとっては常識に属するのであろう。中世史を専攻する私にとっては、有意義な体験であった。

今回救出した資料のうち大部分は宮城県立美術館に、また一部は湧谷町資料館で一時保管となった。
 
今回の2日間のレスキューには、宮城県内のみならず、東京・関西からの参加者があった。特に関西からの参加者は、兵庫の震災・水害での資料レスキュー経験者とうかがった。自身の経験が、彼女・彼らを突き動かす力となっていること、そして本当の意味での
「繋がる」ということが強く感じとられた2日間でもあった。