166号 仙台・石巻を訪ねて

救う―救済活動東日本大震災

野尻泰弘

 2011年の震災以来、人から宮城資料ネットのボランティアに参加した話を聞くたび、自分も早く行かねばならないと思っていた。思いながら一年が経ってしまった。申し訳ない気持ちと焦りを抱え、仙台へと向かった。


2012年5月7日(月)  午前10時半、東京から二時間で仙台に着く。七年ぶりの仙台の街は、一見すると以前と変わらない。だが、東北大学へ向かう20分ほどのバスの車窓から、工事用の足場とシートに囲まれ建物をいくつか見かけた。大学校内では、建物の外壁に損傷を示すテープが張られていた。いずれも地震の跡を語っているのだと思う。

 資料ネットの佐藤大介さんから冷凍保存される資料、デジタルデータの外国での保管などの概略を聞き、その多様な活動に感嘆した。廊下へ移り、地元のボランティアスタッフから説明を受け、昭和・平成の学校資料(出席簿など)のカビを刷毛で払い、消毒をする作業についた。特別な技術はいらないが、今までとは違う資料の取り扱いにためらいを感じる。午後5時、作業終了。
 (絵:被災資料のクリーニング作業(2012年5月7日、事務局撮影)


2012年5月8日(火) 午前九時から作業を始める。同じ姿勢であるため、二日目にして首と肩が張った。有志の地元ボランティアはシフトを組み、週に三~四日作業をしているとのことで、畏敬の念を抱かずにはいられなかった。途中の短い休憩時間、資料ネットのスタッフとボランティアの会話は、古文書講座の話、資料保存の話のほか、とりとめない笑い話も飛び出す。そこには信頼関係が見える。資料所蔵者に信用してもらうことが、資料調査の要とはよく言われることだが、資料救済活動も似ている。何事も人と信用が必要なのだ。資料ネットの活動は、人とつながる活動なのである。
 (石巻市の風景 2012年5月9日、筆者撮影)

 平川新さんから明日は石巻に行き、日和山から被災地を見ることを勧められた。流されずに残った蔵など、天野真志さんに石巻の様子を聞き、石巻の今を知りたくなった。午後5時、作業終了。資料ネットスタッフとボランティアの皆様に感謝しながら、キャンパスをあとにした。勧めを受け、明日は石巻に向かう。


2012年5月9日(水) 午前八時過ぎ、仙台駅前発の石巻行きバスに乗る。バスは一時間に二~三本ほど走っている。片道800円、往復1500円で、約一時間半の旅だ。
 (石巻市本間家の土蔵 2012年5月9日、筆者撮影)

 石巻駅では漫画家石ノ森章太郎が描いたキャラクター像が人びとを出迎えていたが、駅舎の入口扉の下部には津波による浸水位置を示すシールがあった。駅から歩いて日和山を目指す。商店街では「営業再開」「ボランティアさん、ありがとう」の張紙を見たが、営業していない商店、修繕に追われる店舗も目立った。

 暖かい日差しをうけ、上着を脱ぎ、40分ほどで日和山公園に着く。閑散とする街とは対照的に、ピンク色の花が眩しい。普段は花を愛でる気持ちなど持ち合わせていない私だが、息を切らして坂を登り、ほっとしたのかもしれない。それにしても急な坂だった。運動不足の私にはこんな急な坂を駆け上がることはできない。津波を避けるため坂を上がった人たちのことを思うと、息苦しさが増した。


 公園から旧北上川河口、そして海岸線へと目をやった。病院や寺院などの大きな建物を除くと、そこには何もない。新たに造成し、売り出し始めた住宅地のように、道路だけが延びていた。しばらくぼんやり眺めていると、先ほどから何かの音が響いていることに気づいた。それは遠くに見えるショベルカーの音だった。作業を続けるショベルカーの音が、なぜこんなによく聞こえるのか。津波に流され、遮蔽物がないためか、生活の音が絶えたためか。あれこれ思うが、よくわからない。私は目の前の階段を下ることにした。山下は、新たな造成地などではなかった。野晒しになった家屋の土台と、そこに流れついた靴や座布団。確かにここには人が住んでいたのだ。薄汚れた漂流物を見下ろすように、妙に新しい電柱がいくつも並んでいた。 (石巻市本間家の土蔵(2012年5月9日、筆者撮影)

(参照:石巻本間家土蔵修繕の進捗状況 本間英一さん発行 地域紙・記事 )