186号 栗原市M家での歴史資料レスキュー
2013.02.28
事務局の佐藤大介です。2月5日および2月9日の両日に実施した、栗原市M家での歴史資料レスキューの詳報です。5日の活動について東北大学史料館の加藤諭さん、9日の活動について茨城史料ネットの泉田邦彦さんよりご寄稿いただきました。
M家の歴史資料保全活動に加わって東北大学史料館 教育研究支援者 加藤諭
去る2月5日に資料レスキューの先遣として、佐藤大介さんとともに宮城県栗原市のM家を訪問する機会を得ましたので、その体験談を寄稿させていただきます。
M家の家屋は江戸時代築のもので、近世以来の古文書を所蔵されているとともに、酒造業を営み、戦後には県議会議長を輩出されるなど、近世から近現代にかけての古文書や近現代史料を所蔵されている家です。
当家では東日本大震災の被災から、このほど母屋はじめ蔵を解体することとなり、以前より知己であった佐藤さんに話があったことから、2月5日は上記家屋の本格的な解体の前に資料レスキューに入るための事前打ち合わせを兼ねた訪問でした。
そこに今回、私が佐藤さんとともに同行させていただいたのは、当家で土井林吉(晩翠)の書簡を所蔵しているということを、佐藤さんを通じて示唆頂いたからです。1945年(昭和20)、都市空襲が激しさを迎える中、現在の栗原市に東北帝国大学法文学部や旧制第二高等学校の蔵書が疎開されたことが分かっていますが、この際、二高の教授を務めた土井氏の蔵書も疎開され、それらをM家において受け入れていたようなのです。現地で書簡を確認させていただいたところ、書簡は同年5月付のもので、土井個人の蔵書を合わせて受け入れてもらったことに対し、書画2点を進呈するという内容の礼状でした。
幸い土井書簡は今回の解体作業とは関わらない形で保管されていましたが、訪問して分かったことは、母屋はじめ蔵については、実は解体作業が待ったなしの状況にある、ということでした。板蔵2棟、土蔵2棟については一両日中にも解体工事に入る、という緊迫した状態だったのです。
このため、週末9日に予定していた資料レスキューに先立ち、運び出せる古文書や近現代史料は現場の人数でレスキューしなくてはならない、という結論になりました。当日は大場さんはじめ2名の現地栗原市一迫埋蔵文化財センターの方々も加わり、昼前より蔵内部の調査をはじめ、午後からは本格的な搬出作業に入りました。(絵: 確認された文書の搬出 2月5日)
M家ご当主の意向、解体業者のご理解、栗原市行政の迅速な対応が相まって、最終的には蔵の解体は9日の資料レスキュー活動以前に行われないこととなり、一安心でしたが、まさに散逸してしまう一歩手前で資料が救われた、という現場に立ち会うことが出来、大変貴重な機会を得られ、被災地における資料保全は時間との勝負なのだ、という現実を目の当たりにし、歴史資料保全活動の重みを実感いたしました。また、現場において、臨機応変に資料レスキューの手はずを整え、実行に移していく佐藤さんの差配からは、被災地における資料保全への強い使命感が感じられました。
佐藤さんやM家の方のお話では、現在の栗原市方面への東北帝大や二高の教員および蔵書の戦時疎開については、今後も情報提供の可能性があるとのことで、東北大学史料館としても中長期的に連携をとっていく必要性を感じました。また公私ともに歴史資料保全活動の重要性について認識を新たにした一日でもありました。
栗原市M家の緊急被災歴史資料レスキューに参加して
泉田邦彦(茨城史料ネット事務局)
2013年2月9日(土)、宮城県栗原市M家を対象にした歴史資料レスキューが行われ、茨城史料ネットからは泉田邦彦・藍原怜の2名が参加しました。このレスキューに関しては、茨城史料ネットのニュースレター72号において、藍原の文責によるレスキュー参加記を配信していますので、合わせてご覧になっていただければ幸いです。
今回、我々が参加に至った経緯について、まず、6日(水)に佐藤大介氏から配信された宮城資料ネット・ニュース号外が、茨城史料ネット事務局の高橋修(茨城大学人文学部教授)から同事務局員宛に送信され、レスキューの急募が伝達されました。募集要項を読んでみると、期限の猶予がほとんどないにも関わらず、レスキュー対象とされている御宅にはまだ多量の資料が残っていることがわかり、それに対応するためには一人でも多くの人員が必要と感じました。我々が参加することで、少しでも宮城資料ネットの活動の助けになれば、と思い参加を決めました。我々以外には、宮城資料ネットから東北大学・東北学院大学の教員・学生を中心とした16名の参加があり、計18名でのレスキュー作業となりました。茨城史料ネットがレスキュー活動を行う場合は、茨城大学で歴史学を専攻している学生のボランティアの参加が毎回20 名ほどあり、それが参加者の大半を占めますが、今回のレスキュー活動では、歴史学の分野からだけでなく、民俗学や刀剣美術が専門だったり、博物館や行政の立場からの参加だったりと、多様な分野・立場からの参加者があったことが印象的でした。
(絵:現地での作業を開始2月9日)
当日のレスキュー作業は、土蔵二棟と母屋の資料が対象であり、文書資料は市の一時保管庫へ、その他の資料は敷地内の別の場所へ移すことが主な作業でした。そのため、資料の移動先となる土蔵の整理(布団類の搬出=スペースの確保、掃除)を最初に行い、その後、文書資料のレスキュー作業に移り、発見された近世・近代文書をバケツリレー方式で搬出、)番号付けをしながら段ボール箱に納めていきました。今回の文書搬出では、緊急対応のためか、現状記録はカメラで必要最低限の情報を記録するといった方法が採られ、土蔵内部の現状記録は当日には行われませんでした。
現地は、雪が積もり、地面もぬかるんでいたため、史料の運搬が大変でしたが、特に大きなトラブルも起きず、順調に作業を進めることができました。また、土蔵から取り出した資料は、一時的に土蔵の前に設置された仮置き場にて整理されましたが、この仮置き場は、敷地内で解体された建物の廃材を敷き平らにした上にブルーシートを敷くといった工夫が施されていました。足場の悪い現場ならではの対応だと思いました。作業は、昼食休憩と小休止を何度か挟みながら日が暮れるまで続けられ、17時半ごろに終了し、19時には仙台駅着・解散となり、一連のレスキュー作業を終えました。
ここからは、レスキュー後の個人的な「参加記」を雑感とともに書いていこうと思います。仙台駅解散後、茨城史料ネットの二人は、平川新・佐藤大介両氏に連れられ、宮城資料ネットの事務局が置かれている東北大学文科系総合研究棟11Fにお邪魔しました。そこで、宮城資料ネットの活動についてお話を聞き、被災資料のクリーニングを行っている作業スペースを見学させていただく機会がありました。宮城資料ネットの場合は茨城史料ネットとは異なり、文書情報の記録とクリーニング作業とは別々に行っていること、文書修復のための機材が揃えてあるので自前で対応できることなどを知り、自分たちの活動を相対的に捉えなおす良い機会となりました。
その日の夜は、平川氏の御厚意により、氏宅に宿泊させていただきました。平川氏が資料保存活動を始めた当初の話、東日本大震災の際の宮城資料ネットの活動、氏の研究姿勢についてなど、日付が変わるまで様々な話を聞かせていただきました。私たち学生にとっては、どれも貴重な話であり、多くのことを学ぶことができ貴重な体験となりました。平川氏の御家族の方には、突然の来訪にも関わらず、好意的に迎え入れていただき、大変感謝しております。本当にありがとうございました。
最後になりますが、宮城資料ネットのみなさんの尽力と、所蔵者の御厚意のおかげで、我々は貴重な経験をすることができました。改めて感謝申し上げます。また宮城で緊急の募集があった際には駆け付ける所存です。ありがとうございました。 *茨城史料ネット公式サイト
今回は緊急の活動となりましたが、多くの方のご協力で無事完了することができました。加藤さん、泉田さん、また参加していただいた末尾ながら、記して御礼申し上げます。なお茨城史料ネットの二名は、自県の被災対応に追われる中、さらに9日の仙台での宿泊先が確保できなかったにもかかわらず、駆けつけてくださったということを記しておきたいと思います。