189号 宮城県内での学校資料の保全

守る―保全活動救う―救済活動東日本大震災

宮城資料ネット理事(宮城学院女子大学)大平 聡

1 活動のきっかけ
 古代史を専攻する私が、学校資料に関心を持つようになったのは、勤務校の「学徒勤労動員」に気付いた2000年のことでした。初めは宮城県公文書館に保存されている公文書に注目したのですが、戦時期の資料は欠落していました。そこで旧制中学校・高等女学校の後進である宮城県内の高等学校の記念誌を手がかりに調査を始めました。多くの学校で、記念誌編さんと同時に資料類を処分していた事実に突き当たりました。一方、学校日誌が残っている高等学校も多く、公文書では知り得ない学校現場や地域の様子を知ることができました。

 2007年頃からは、小学校の資料に関心を持ち始めました。小学校の方が地元密着で、地域に関する情報も得られるのではないかと考えたからです。きっかけは、統廃合で廃校となる小学校で昭和20年の日誌が発見され、空襲警報の詳細な記述が確認されたことを伝える新聞記事からです。その学校の調査を通じて、地域の教育史を研究されている方を紹介していただき、本格的な調査を始めました。日誌や公文書綴りなど、まさに学校は地域の記憶装置であることを実感しました。一方、学校資料を閲覧するためには教育委員会の了解を得ることが必要であることを知り、校長会を通じて周知していただきました。

 当初は研究のために学校日誌の調査から始めましたが、すぐに日誌以外にも膨大な資料が眠っていることを知ることとなりました。学校長にその重要性を伝え、調査の御礼として資料の目録作成、さらにご希望があれば保存用封筒や文書箱への収納といった保全作業を申し出ました。ここで、調査・保全作業を宮城歴史資料保全ネットワークのプロジェクトの一つに位置づけていただき、2010年度からはゼミの学生と「学校資料の調査・保全活動」に取り組むことになりました。

 この頃から小学校の統廃合に関する記事が頻繁に見られるようになりました。記事を見つけると教育委員会を訪問し、廃校となる学校資料の保存をお願いし、それらが大切な地域資料であることを伝えます。さらに廃校となる学校だけではなく、地域内すべての学校について目録の作成と保全作業を行い、地域の近現代教育資料として活用できるようにデータを整えることを提案します。そうして、宮城県内の7市町で作業を実施してきました。

 ところで、学校資料の中には、個人情報にかかわる資料が大量に存在します。それゆえ、調査に際しては慎重に対処することを、学校側に説明しています。目録作製のための撮影は表紙に限定し、年次が表紙に記載されていない場合や、簿冊が合綴されている場合に限り、簿冊を開くこととしています。また作業終了後には、作製した目録とすべての画像データを学校と教育委員会に提出し、とにかく貴重な資料を保存し、廃棄しないでいただきたいこと、その利用方法については、時間をかけて考えていただきたいことを伝えています。「保存即公開」を求めるものではないことを、特に強調してお願いしてきました。

2 東日本大震災後の活動

■気仙沼市での被災状況確認・保全活動
 ガソリンがようやく手に入った4月7日、気仙沼在住の学生に支援物資を届け、合わせて新城小学校に、約束していた目録をお届けすることができました。同校は被災直後、ご遺体の安置所になっていましたが、訪問時には、解除されていました。ここで、気仙沼市内の小学校の被災状況のあらましを教えていただきました。市内では、南気仙沼小学校が大きな被害を受けていましたが、その他の小学校は高台にあったため無事とのことでした。気仙沼市内は、旧本吉町・唐桑町を含め、明治以来の学校資料が豊富に保存されている地域です。資料の保全作業の緊急性がないことを確かめ、ひと安心しました。

 5月27日に、気仙沼市立津谷小学校を訪問しました。同校には本吉地区唯一の木造校舎があり、地域歴史資料室が開設されていました。その状況確認に伺ったところ、土壁が部分的に剥落しており、取り壊しの可能性もあるとのことでした。そこから、11年度に調査を予定していた南三陸町に向かいました。小泉地区を通り過ぎた時、気仙沼線の高架の上に家屋が乗っている状況に驚かされました。南三陸町立伊里前小学校には、名足小学校が同居していました。伊里前小学校(歌津地区)はかなりの高台にありますが、一階まで浸水したということで、文書の一部が水をかぶっていました。エタノールでの応急措置を施しました。名足小学校は被害がひどく、何とか持ち出したという資料には、明治の学籍簿など、貴重な資料が多く含まれていました。新聞でも報道されていた、栗原の教員OBチームの方々による洗浄がすでに施されており、安定しているようでしたが、念のため、エタノールの噴射を行いました。ここで、登米市に避難している戸倉小学校が津波被災資料の処置に困っていることを伺い、資料ネット事務局に連絡して、対応していただきました。なお、2013年1月、名足小学校を再訪し、目録の作成を行いましたが、その折、資料に砂が付着していることを確認しましたので、刷毛による砂の除去作業を2月に2回実施しました。

 7月(2011年)にはいって、津谷小学校より、木造校舎の取り壊しの可能性が高くなったという連絡がありました。そこで8月10日、人間文化学科の学生に広く呼びかけ、木造校舎からの資料搬出作業を行いました。本会理事でもある井上研一郎が物品を、大平が文書・書籍類を担当し、一日がかりで鉄筋コンクリート校舎に搬出しました。これらの資料の整理・保全作業は、2012年2月10日、学科学生の協力を得て、それぞれノートパソコンを持参し、目録を作りながら保存箱に収納するという作業を行いました。なお、この木造校舎は、山形大学の永井康雄先生がその後診断を行われ、補修によって継続使用可能との報告書を気仙沼市に提出して下さいました。木造校舎は、現在も使われています。

津谷小学校での活動(2011年8月10日/撮影:大平聡)

  

■登米市登米町・山元町での被災状況確認・保全活動
 2012年2月、涌谷町で行っていた町内の学校資料所在調査が一段落したので、登米町の教育資料館(旧登米小学校木造校舎)の見学に行きました。やはり、かなり痛んでおり、西半分の見学ができない状態でした。昭和30収納が必要と判断し、教育委員会の許可を得て保全作業と目録の作成を行いました。作業中、山元町から、坂元中学校で発見された戦時中の教育資料について意見を求められ、3月6日に訪問しました。坂元中学校は被災していませんでしたが、同町では複数の小学校が被災しており、そのうちの一校、中浜小学校で校歌の額の処置に困っているというので訪問し、預かりました。この額は、資料ネットに運び、洗浄していただいて返却しました。

■気仙沼小学校での活動
 2012年7月2日、気仙沼市教育研究会歴史部会研修会(会場松岩小学校)で、学校資料の地域史資料としての重要性を講演しました。その折、かねてから気になっていた気仙沼小学校の資料保管庫を見せていただいたところ、膨大な資料が保管されていることを知り、目録の作成を申し出、2013年1月17・18日に作業を行いました。
明治20年代からの日誌、学籍簿のほか、種々の日誌類を含め、初めて見る資料が少なくなく、その質・量に圧倒されましたが、多くの資料にカビが発生していることにも驚かされました。そこで、2月15日、資料ネット事務局の天野真志さんにご指導いただき、カビ対策の措置を行いました。

気仙沼小学校での活動(2013年1月17日/撮影:大平聡)

■女川町・石巻市での所在確認調査
 2012年11月には、女川町で小・中学校の再編が決定したとの報道があり、それぞれの学校にどのような資料があるのかを把握するための目録作成を教育委員会に提案し、了解を得て実施、目録をお届けいたしました。また、2013年1月には、宮城学院女子大学がボランティア提携している石巻市立大原小学校を訪問し、所蔵資料の目録作成を行いました。同校には、津波で被災し、統合された谷川小学校の資料が保管されていました。賞状類は資料ネットに運び、処置していただき、返却しました。写真は、山元町で知り合った写真修復ボランティア団体に処置をお願いすることができました。

 以上が、震災に関連しての私のゼミの活動です。私たちは、被災の中心地にはいって資料をレスキューするというより、統廃合で失われる危険性の高い資料の保全に重点を置いて活動してきました。それを私たちの「役割分担」と考えて活動してきました。 これまでに作業を行わせていただいた学校は、震災前も含め40を超え、50に迫ろうとしていますが、まだまだ県内のごく一部で実施したに過ぎません。廃校になる学校に明治以来の資料が良好に残されていることに出会うと、学校は無くなっても、学校が存在したこと、学校を軸に営まれてきたその地域の社会生活の確かな痕跡が保存されていくであろうことに、救われる思いがしています。これからは、地域に残された貴重な近現代資料としての学校資料を使って、地域の歴史、学区の歴史を叙述することが大きな仕事となってくると考えています。


 東日本大震災の発生後、宮城資料ネット各会員による多様なレスキュー活動が続いています。今回は、大平聡さんから、宮城県内の小学校資料の保全活動について、震災前の状況も含めてご報告いただきました。(佐藤大介:記)