190号 村田町における歴史民俗資料の保全

救う―救済活動東日本大震災

村田町教育委員会 石黒伸一朗

 平成23年3月11日金曜日、午後2時40分頃、旧足立あしたて幼稚園の園庭に公用車で到着した直後、ラジオから緊急地震速報が流れた。なぜ、着いた直後かというと、次のような仕事をしていたからである。

 村田町では、五つの小学校のうち第二小学校を除く、第一小学校から第五小学校の四つの小学校を、平成23年3月末日で閉校し、一つの小学校に統合するという大きな事業が進んでいた。その統合にともなって、小学校に長らく保存されていた沿革誌・日誌・学籍簿などの文書資料、卒業アルバムなどの写真、戦前から戦後にかけての備品や教材が廃棄されるのではないかと気にかかっていた。これらの資料や教材は、小学校の歴史のみならず、その周辺地域の歴史資料としても貴重であるため、保全する必要があると考えられたので、学校を管理している町教委教育総務課の許可のもと、平成22年12月から宮城学院女子大学の大平聡先生のご協力を得ながら保全作業を行っていた。

 3月11日は朝から、第五小学校から昭和40年頃に授業で使われていた算数や理科などの教材を公用車に満載し、一時保管場所としている旧足立幼稚園に運んでいた際、大地震と遭遇した。園庭では、立っているのがやっとという状態であった。揺られながら思ったのは、村田町中心部に残る、江戸後期から大正にかけて建てられた土蔵造り建物群のことであった。大きな地震動に弱い構造の土蔵に被害が出ているのは確実と思われた。すぐ、職場の村田町歴史みらい館へ戻り、被害状況を確認した。展示室では、釜神と看板が破損していた程度と、被害は軽いようであったので、片付けなどはほかの職員にまかせ、カメラを手に町中心部へ向かった。

 村田町役場の震度計では、震度5強が観測され、軒を連ねている土蔵造り建物には、海鼠壁の崩落、漆喰壁の亀裂、屋根瓦の落下やズレ等の被害がみられた。土壁が大きく崩落した建物では、外から内部が見える状態になったところもあり、壊れていない土蔵は無いと言っても過言ではない状況であった。今後、被害が大きい建物は解体されることが予想された。また、その解体に伴い古文書や民具などの歴史民俗資料が安易に廃棄されるのではないかという心配もあった。平成15年7月に宮城県北部地震が発生し、建物の解体や内部の片付けによって、歴史資料が大量に廃棄されるという事態となり、それを契機として宮城歴史資料保全ネットワーク(以下、略して「資料ネット」)が設立されたという経緯も知っていた。

 3月11日以降、筆者は避難所の勤務に当たったが、その合間をぬって文化財の被害状況の把握を行っていた。また、歴史的な資料や民具が廃棄されないように注意し、時々見廻りしていた。16日、携帯電話が復旧したため、資料ネットの佐藤大介氏と連絡を取り、対応などについて相談した。19日佐藤氏から、資料を安易に捨てないように周知する、チラシを配布したらどうかという提案があり、原案をメールで送って頂いた。

 それをもとにして、歴史資料のほかに海鼠壁に用いられている平瓦も捨てないようにという文言を付け加え22日に印刷した。翌日、むらた再発見「蔵」の会の会員とともに、土蔵造り建物の所有者へ配った。


 4月5日、資料ネットの佐藤大介・蝦名裕一・天野真志の各氏と一級建築士佐藤敏宏氏の4名が来町し、5箇所の商家について被害調査をされた。村田商人ヤマショウ記念館(旧大沼正七家)では、仏壇の中にあった江戸後期の古文書を保全した。

 同月13日、金沢から歴史的建造物修復士の橋本浩司氏と一級造園施工管理技士の中村彩氏、佐藤敏宏氏の3名で、町指定文化財武家屋敷(旧田山家住宅)や商家など13か所について、専門的な立場から被害状況と修復方法について調べられ、長期的にしっかりと修繕していくが大切であると指摘された。
 (絵:宮城資料ネットによる土蔵の被害調査)


 歴史的建造物の被害調査は、文化庁の文化財ドクター派遣事業により、主に日本建築家協会(JIA)の会員と大学関係者が文化財ドクターとなり、7月9日から始まった。開始早々、村田商人ヤマショウ記念館の調査では、味噌蔵の2階から古文書が多量に見つかった。これは所有者の許可のもと、資料ネット事務局に運ばれ整理と撮影が行われた。古文書の多くは、紅花などの取引に関するもので1,658点を数え、後日所有者から村田町に寄託された。

 (絵:村田商人ヤマショウ記念館の味噌蔵から古文書を発見。これは資料ネットにより整理された)
 
 村田町教育委員会による保全活動は、商家7箇所と旧旅館1箇所の、合わせて8箇所において実施し、その回数は延べ20回を超える。保全活動を行った建物は、ほとんどが解体予定の建物か、解体中の建物である。その解体情報は、周りの方からの連絡が多かった。保全作業は、次のような手順で実施した。まず、建物の所有者に資料を運び出しても良いかという許可を得る。許可が取れたら、資料の原位置を記録するため写真撮影を行い、運び出した。しかし、業者によって既に解体が始まっているところでは、重機が動いており危険なため、ほとんど保全できなかった現場もある。

 保全した資料は、村田町歴史みらい館に運び清掃を行い、何時どこの建物から運んだかという表示を付けた。さらに個別に写真を撮り、仮目録を作成した。これらの資料は、所有者から村田町へ寄贈、あるいは寄託され、その数は7,000点を超えた。歴史みらい館の収蔵スペースはそれほど広くはないため、旧足立幼稚宮城資料ネットによる土蔵の被害調査町教委による民具や建具などの保全村田商人ヤマショウ記念館の味噌蔵から古文書を発見。これは資料ネットにより整理された。

町教委による民具や建具などの保全
旧旅館から戦前の電話ボックスを保全

 

 旧旅館から戦前の電話ボックスを保全園や旧第五小学校の校舎を借りて、一時的に保管している。しかし、教室等は日光が当たり、棚がなく資料を平置きしている状況であったため、被災文化財等救援委員会から遮光カーテンやメタルラックなどの支援を受け、収蔵環境は向上した。保全した資料の一部は、歴史みらい館において展示を行ったものもあるが、ほとんどの資料は収蔵されたままである。今後、それらの資料の活用も課題の一つである。

 村田町教育委員会としては、歴史みらい館が準備段階であった平成5 年頃から、個人宅の資料所在調査を行い、どの家にどういう資料が収蔵されているかを、おおよそ把握していたこと、ならびに震災以前から資料ネットとの関係があったことなどから、今回の東日本大震災では速やかに保全活動が出来た。


 今回は村田町教育委員会の石黒伸一朗さんに、宮城県村田町での被災歴史民俗資料のレスキュー活動について、ご寄稿いただきました。(佐藤大介:記)