196号 岩手県一関市のO家 歴史資料レスキュー
2013.05.21
事務局の佐藤大介です。今回は岩手県一関市のO家で、5月2日および20日に実施した歴史資料レスキューの報告です。
◇経緯
今回のレスキューについては、4月末に地元の文化財調査員から一関市芦東山記念館に、O家の破損した土蔵から古文書その他の史料が大量に確認されたとの情報が寄せられたことがきっかけです。4月25日には同館職員の千葉貴志さんと張基善さん(本会会員)が状況を確認し、宮城資料ネット事務局に救援要請がありました。即座に対応する旨を回答しました。
連絡を受け、先ず憂慮されたのが雨漏りによる被災です。すでに震災から2年以上が経過しています。また、東北地方南部の梅雨入りは、平年6月初め。それほど時間の猶予があるわけではありません。5月中にレスキューを実施する前提で調整に入りました。建物が激しく破損しているとの事前情報があったので、最初に建物の客観的な被害状況確認も兼ねて状況確認を行うこととしました。
今回のレスキュー実施にあたって問題となったのが、本格レスキューの日程調整です。大量の史料確認という情報から、現地での活動は一人でも多くの参加人数が必要だと判断されました。しかし、ボランティアを募集するにも、その参加が比較的得られやすいとおもわれる週末については、梅雨前の6 月初めまで、事務局スタッフは全員公務などで身動きが取れない状態です。一方、要請が入る直前、久留里城址博物館の布施慶子さんを通じて、千葉県内の学芸員有志による仙台市での被災歴史資料対応への参加申込を受けていました。その予定日が、5月20日でした。布施さんに事情を説明し、現地でのレスキューへの参加をご快諾いただきました。その後千葉さんを通じて調整を進め、状況確認調査を5月2日に実施し、その際に20日に本格レスキュー実施をお願いする方向で対応することとしました。
◇5月2日状況確認調査
5月2日の状況確認調査は、事務局の佐藤と、本会会員の一級建築士・佐藤敏宏さんの2名で対応しました。「梁が折れている」との事前情報の通り、土蔵は素人目に見ても激しく損傷していました。
佐藤敏宏氏によれば「全壊」レベルとの事で、裏山の樹木が繁茂し風通しが悪くなるなどして経年劣化していた土蔵が、震災で決定的に破損したのだろう、とのことでした。さらに問題は蔵の扉がわずか30センチほどしか開かなかった事です。
最初に訪問した地元の文化財保護委員の方がなんとか扉を開け、10袋ほどを袋詰めしていたとのことで、今回はまずそれらの史料を土蔵の外にわずかな隙間から史料を搬出(5月2日)搬出しました。その上で扉の状況を確認すると、建物の歪みのためか、土蔵入り口の引き戸が収まる部分に柱が数センチほど干渉して扉に引っかかってしまう状態で、それ以上開けるのは困難に思われました。扉が開けられなければ、中の収蔵品を短時間で、大人数で搬出するのは不可能です、何とか扉を開けようと、所蔵者も交えて悪戦苦闘しているうちに、入り口の半分(60センチほど)を超えるぐらいまで扉を動かすことができました。所蔵者の先祖の力添えがあったのでしょうか。
扉が開いたところで改めて状況を確認すると、搬出したもの以外にも史料が確認されました。しかし膨大な量でしたので、今回は最初に土蔵から運び出した文書の搬出にとどめることとしました。土蔵の扉は閉められないので、20日までに雨などが吹き込まないようブルーシートを貼りました。合わせて、土蔵の簡易測量を実施しました。
本格レスキューについては、5月20日の実施に了承を得ることができました。
◇5月20日の活動
5月20日は仙台駅に集合して午前8時15分過ぎに出発、約2時間で現地に到着しました。宮城資料ネットからは事務局およびボランティアスタッフの8名、千葉県の学芸員有志4名、さらに芦東山記念館2名、一関市博物館3名、一関市教育委員会生涯学習課2名の7名、合計では19名の参加となりました。
活動では、まず史料の所在確認のため、土蔵内部の品物を一旦すべて外に搬出することとしました。5月2日に搬出口を確保し、さらに多数の参加を得られたことで、1時間ほどで作業は終わりました。その後、文書と民具に大別して清掃を行いました。文書史料は和本や近代文書などダンボール箱39箱となり、仙台での半分程まで開いた土蔵の扉(5月2日) 入り口へのブルーシート貼り付け(5月2日)土蔵内部での活動(5月20日) 搬出した史料の清掃(5月20日)応急処置のため搬出しました。民具類は所蔵者の希望で、追って選別したうえで保管するとのことです。
地元行政との連携、日程調整、ボランティアの参加と、様々な要素が有機的に機能し、今回の活動を無事
終えることができました。関係各位に御礼申し上げます。