201号 G家資料のレスキュー

救う―救済活動東日本大震災

石巻市教育委員会生涯学習課 佐々木 淳

2013年6月4日午後1時頃、当課へ、古文書を所蔵しているG家が取り壊されることとなり、その古文書が失われる可能性があるとの情報が入った。 G家は、1985年に、石巻文化センター開館準備のための資料調査の一環として、庄司恵一氏と佐々木とで整理した古文書を持った家と思われた。津波の直撃を受けた文化センターから、運よく見つけた古い住所録があったので、その家の電話番号や住所はすぐにわかった。電話をかけてみたが誰も出ない。 そこで、まず、佐々木、文化財グループリーダーともう1名で、現地に確認に向かった。

 G家に着いてみると、やはり、1985年に整理した古文書を所蔵しているはずの家であり、すでに解体業者が家財等を分別して、大きな袋に詰めているところであった。幸い、ご当主がいらっしゃり、お話をすることができた。

 ご当主からは、「古文書は持っていたとは思うが、今はどこにあるかわからない。もしかすると、ないかもしれない。もし、あれば、教育委員会で持って行ってもかまわない。その他書籍類も同様に持って行ってもいい」とのことであった。

 建物は、大きな軸組は無事だと思われるが、後世の補修部分が、かなり傷んでいるようであった。建物に入ると、すぐに、破れた襖や屏風があり、その下張りに古文書が使われていることが分かった。となると、もし元々の古文書が見つからなくとも、襖や屏風だけでもレスキューする必要があると思われた。

 ご当主が、古文書があるとすればここだという場所は、納戸らしく、薄暗い。とりあえず駆けつけただけで、懐中電灯もない状況では、捜索するのも困難であった。解体業者に話を聞くと、家財の運び出しには数日かかるとのこと。翌日は、業務が立て込んでおり、市教委単独で対応するのは不可能と思われた。
 

 そこで、その場で、特定非営利法人宮城歴史資料保存ネットワーク(以下「資料ネット」と略す)の佐藤大介氏に電話し、出動を依頼した。出動は可能との返事をいただき安心した。また、G家の本棚から運よく85年に作成した目録を発見することができた。この目録は、当時のことゆえ手書きであり、また原本は津波で流出していたため、市教委にはなかったものである。佐々木のうろ覚えでは100点以上あり、人数改帳が複数あったこと以上のことは思い出せなかったので、非常に幸運であった。

 解体業者へは、下張りの古文書を示し、このようなものについては、明日までは手を付けないようにお願いし、了解を得た。解体は、まだ始まったばかりであり、明らかに古文書ではない家財が、まだ大量にあったので、作業が止まるなど、解体業務の妨げになるおそれはないと思われた。現場作業員のチーフが現場代理人と連絡を取ってくれ、協力を得ることができた。そこで、いったん市役所へ戻ることとした。

 本庁へ戻り、佐藤氏と細部の打ち合わせをするとともに、文化財レスキューを実施する旨の連絡を、解体業務を発注した市の担当課へも行い、さらに解体業者へファックスで協力依頼の文書を送付した。佐藤氏から、85年に佐々木と一緒に古文書整理を行った庄司恵一氏へも声をかけたので、都合がつけばいらっしゃるとのことで、庄司氏が来れば、見つかる可能性は高まると思われた。

 翌6月5日は、午前10時集合とし、市教委は、佐々木ともう1名が現場へ向かった。全員が集まる前に、近所にお住いの親戚の方と会うことができた。文化財レスキューの内容をお話しすると、協力していただけることとなり、経緯を書類で残す必要がある旨説明したところ、所蔵者と連絡してこちらに連絡を入れてくれるように依頼していだけることになった。実は、前日にお会いしたご当主は、連絡先をお聞きする間もなく、帰られていたのであった。

 全員が集合し、佐々木から経緯及び解体業務の妨げにならないように等の注意事項を話し、古文書の捜索及び下張り文書の選別に取り掛かった。まず、佐々木が、納戸の中二階的なところに上がったところ、すぐに「古文書」と書かれたシールが貼ってある段ボールを見つけた。開けてみると、石巻文化センターの整理用封筒に入った古文書が入っていた。早速明るいところに出し、点数を確認してもらった。もしかして全点あるかと思ったら、残念ながら、目録の後ろ半分だけが入っていた。ということは、年代順に整理したので、近世の部分は、ほとんど入っていない。


 G文書で特筆すべきは、近世の牡鹿郡陸方地域でわずかしか残っていない「人数御改帳」があることとである。文書の前半部分がないと、G家文書の特徴が失われてしまうこととなる。そのため、納戸へ引き返し、また、中二階部分を探し始めた。 納戸は、現代の布団・近世の食器セット・長持など雑多ものが置いてあり、もし見つからないときは、大人数を集めて、すべての家財を出すしかないと思い始めたとき、納戸の下を捜索していた佐藤大介氏が、布団の中からお茶箱に入った古文書を発見した。

 佐藤氏は、記録写真を撮った後、お茶箱を引っ張り出した。ただちに明るいところへ運び、内容を確認すると、やはり85年に整理した古文書の前半部分であった。欠落がないかどうか、資料ネットのメンバーに確認をお願いし、その他の資料の捜索にかかった。

 襖や屏風は、二種類あり、古いものは近世文書・明治・大正の帳簿等を下張りにしていた。比較的新しいものは、戦後あたりの新聞を下張りにしていた。ちょっと悩んだが、新聞紙の下張りとなっている襖はレス解体中の家屋から襖を搬出するタンスから掛け軸を発見発見された宗門人別帳の照合作業キューしないこととした。 また、額及び軸物もあったので、とりあえずレスキューした。

 近世の食器類など民俗資料的価値及び骨董的な価値のありそうなものもあったが、保管場所・時間的に価値の見極めができないことなどの理由により、レスキューしなかった。


 さいわい、85年に整理した古文書はすべて確認された。ちょうど都合のついた庄司氏も駆けつけ、主要な文書は、茶箱に入っていたとの記憶であったので安心した。その他にも若干の近代文書を救出し、襖等をより分け、資料ネットが用意してくれたワゴン車にレスキューした資料を積み込み、出発したのが、11時過ぎ、仮保管場所へ運び込んだのが、お昼ちょっと前であった。 最初の情報が入ってから23時間、資料ネットに連絡してからでは21時間ほどであった。

 この日の夕方、親戚の方から連絡していただいたG家の奥様から電話があり、寄贈していただけるとのことであった。すぐに手続きを取り、翌週には寄贈の手続きはすべて完了した。

 今回は、通報が入った際に、G家のことは、たまたま佐々木の記憶に残っており、住所録も水損したものの何とか残っていたので、迅速な対応がとることができ、しかも、資料ネットの出動が可能であったこと、所蔵者をはじめとする関係者がすべて協力的であったことが幸いし、間一髪であったとはいえ、レスキューが成功した事例となった。

 これが一歩間違って、G家のことを知っている人物に連絡がつかなかったり、関係者が非協力的であったりしたら、貴重な古文書が失われてしまう可能性があったと思われる。特に解体が始まっている状況では、迅速な対応ができないと致命的であることが改めて確認できた。

 一方、レスキューしなかった民俗資料等については、レスキューする価値のあるものもあったかどうか、もっと時間があれば、詳しく調査することができたという思いもある。

 ともあれ、今回は、一応レスキューに成功し、貴重な資料を保存することができた。佐藤氏・天野氏をはじめとする資料ネットのメンバーの方々、所蔵者・解体業者等関係各位に心からの謝意を表します。