310号 宮城資料ネットの15年を振り返って-理事長退任のご挨拶

守る―保全活動広める―普及活動救う―救済活動

平 川 新

 
 私こと、本日(2018年6月3日)をもって、NPO法人宮城歴史資料保全ネットワーク(略称:宮城資料ネット)の理事長を退任いたしました。宮城資料ネットが発足してから15年。長いあいだ、多くの皆さまにご支援とご協力をいただいてきましたことに、心より御礼を申し上げます。
 これを機に、宮城資料ネットのこれまでの活動と、それに関連する出来事を振り返り、私なりの総括にしておきたいと思います。

*PDF版
https://drive.google.com/file/d/1fmkzuu6sLJ2LQ4PJgwM7xQTIJO_Y13jY/view?usp=sharing

■宮城資料ネットの発足-2003年
 NPO法人の前身である宮城歴史資料保全ネットワーク(略称:宮城資料ネット)が発足したのは、2003年7月26日の宮城県北部地震のあとのことでした。宮城県内外の多くの方々のご参加をいただいて、被災状況調査や史料レスキューに取り組んだことが始まりでした。このときには3ヶ月の間に、手分けして192軒の旧家を訪問し、10万点を越える史料を発見しました。一方で訪問が遅れて、すでに処分したというお宅が数軒ありました。そんなに大事なものなら、なぜもっと早く来なかったのか、と残念がる所蔵者の声が胸に応えました。

■災害「後」から災害「前」の活動へ-2004年
 このときの活動が一段落したころ、地震学者がしきりに、近い将来、宮城県沖地震が発生する!、と警告するようになりました。地震が起きてから活動を始めたのでは、また手遅れになってしまうという危機感から、災害が発生する前に史料の所在調査を実施し、デジタル写真によるデータベース化をしようということになりました。こうして、災害「後」の活動から、災害「前」の活動へと展開していくことになったのです。

■膨大な史料群の存在
 以来15年。こんなにも史料があるのか、と思うほど、たくさんの史料を発見しました。列島全域でみると、まだ数億点の史料が未発見・未整理のまま眠っているのではないかと言われています。それらは災害や家の改築や代替わりなどで、徐々に消滅したり散逸しています。
 歴史研究は、現在私たちが所在を把握している史料にもとづいておこなわれています。しかし、まだまだ膨大な史料群がこの列島上に未確認のまま残されているのだとしますと、限られた史料をもとに立論されてきた歴史解釈や歴史認識に確信がもてないということになりかねません。歴史像を豊かにするということがよくいわれますが、そのためにはできるだけ多くの歴史資料の所在を調査し、それを社会に共有のものとしていくことが必要だと思われます。

■NPO法人として再出発-2006年
 宮城資料ネットの活動は、こうした理念のもとのおこなわれてきました。しかし、単なる任意団体ではなく組織としての永続性と透明性を高めるために、2006年9月、宮城資料ネットをNPO法人として再構築しました。翌年2月に宮城県からNPO法人として認証され、宮城資料ネットは公的存在となりました。

■東北大学防災科学研究拠点の結成-2007年
 とはいえ、歴史資料や文化財分野だけの活動では防災や減災の活動としては限界があります。そこで東北大学の防災・災害研究に取り組んでおられる研究者に広く声をかけて、2007年3月に東北大学防災科学研究拠点を立ち上げました。文系・理系から20分野の教授が参加してくださり、総長裁量経費の助成を受けて、共同研究や研究成果の社会発信を進める体制をつくりました。歴史学や史料保全がどうやって理系との共同研究を可能にできるか、ということも模索し始めたのでした。

■岩手・宮城内陸地震の発生-2008年
 徐々にその活動を進めているなかで、2008年6月14日に岩手宮城内陸地震が発生しました。研究拠点のメンバーは一斉に被災地に入り、それぞれの分野で可能な限りの救援・調査活動を展開しました。宮城資料ネットも同拠点と連携して、栗原市・大崎市で約50件の訪問調査を実施しています。この地震では山間部の各所で土石流が発生しましたが、私の二人の知人もその土石流にのまれて命を失いました。
 廃線となる「くりはら田園鉄道」の遺産を残すために、栗原市が設けた委員会でご一緒していましたが、東京からおいでになっておられましたので、委員会を終えて栗駒山中の温泉に向かいました。ぼくも行きたいなあ、今度ね、といって別れたのでした。翌朝、その温泉旅館で犠牲になられたのです。お二人があの旅館のなかにいたという連絡を市役所から受けたときには、膝がガクガクと震えたほどの衝撃でした。

■文科省特別教育研究経費の採択-2010年
 東北大学防災科学研究拠点から文科省の特別教育研究経費(研究推進)を申請するために、同省を訪れたのは2008年5月のことでした。なぜ東北大学にそれが必要なのか、と担当者からは難色を示されましたが、近い将来確実に襲来する大地震に備えるためだと強調しました。岩手・宮城内陸地震が発生したのは、その翌月のことでした。予測が的中したこともあって、9月には文科省の予算原案に盛り込まれて財務省に送られましたが、同月に思わぬ事態に見舞われました。世界的金融危機リーマンショックへの緊急経済対策のために政府予算が大きく見直され、年末の政府予算案からは削られてしまったのです。こちらのショックも大きなものでした。

捲土重来を期して大学本部と共に翌2009年も文科省に要望し、同様に文科省原案に盛り込まれました。しかしまた9月に、肝を冷やすようなことが起きました。政権交代による事業仕分けです。大幅に減額はされましたが、幸いなことに採択されて2010年度からの実施が可能になりました。

■東日本大震災の発生ー2011年
 そして2011年3月11日の東日本大震災。地震が引き起こした大津波は二万人近くの命を奪い、膨大な家屋と財産を押し流してしまいました。私の研究室があった研究棟も大きく損壊し、使用不能となったために、大学に要請して代替室を確保し、大震災対応の活動を開始しました。震災直後からの事務局の動きや被災地でのレスキュー活動などについては「宮城資料ネットニュース」で頻繁に情報を発信しましたので、本ネットのホームページで、その記録をご確認いただければと思います。
 震災前に史料調査に訪れていた旧家が何軒も津波に流されたり、浸水を受けました。内陸でも地震で大きく損壊して解体を余儀なくされた歴史的建築物が少なくありませんでした。
 震災のあった2011年の史料レスキューは40軒・69回、2012年度は23軒・30回でした。呼びかけてに応えて、多くの仙台市民と宮城県民、全国の方々がボランティアとして駆け付けてくださいました。大変心強いことでした。この場をおかりして、改めて御礼を申し上げたいと思います。

■災害科学国際研究所の開設-2012年 
 一方、東北大学では総長からの要請により、先の防災科学研究拠点を基盤に、附置研究所として災害関連の研究所開設をめざす取り組みを開始しました。研究所の設立構想、文科省との交渉、学内各部局からの研究者の異動要請など、通常であれば数年かかる案件でしたが、幸いにして1年後の2012年4月に災害科学国際研究所の開設にこぎつけることができました。文系と理系、そして震災アーカイブズや社会連携のためのリエゾン機能をも加えた6部門36分野の研究所となりました。未曾有の大災害を経験した非常時であればこそ、全学としての取り組みが可能になったのだと思います。
 歴史関係では、歴史資料保存研究分野(教授1,准教授1,助教2)と災害文化研究分野(教授1)を設置しました。

■上廣歴史資料学研究部門の開設-2012年
 2011年10月に、岡山県津山市にある津山洋学資料館に講演に行きました。震災前に洋学史研究者の岩下哲典さんから、大黒屋光太夫や石巻若宮丸漂流民が持ち帰った外国情報について講演するよう依頼を受けていたからです。その講演会のスポンサーが上廣倫理財団でした。東京大学や京都大学、イギリスのオックスフォード大学などに寄付講座を設置し、哲学・倫理に関する教育・研究の振興をはかっていた財団です。
 講演会が終わったあとに財団の方からそのようなお話しを伺いましたので、歴史資料は昔の庶民の倫理・思想を明らかにする貴重な文化財なので、それを保護する活動にぜひ支援をしていただけないかと要請しました。財団はすぐに寄付講座開設を決定してくださり、東北大学東北アジア研究センターに上廣歴史資料学研究部門が設置されました。2012年4月のことです。同月から新設の災害研に移った私は、寄付部門の兼務教授および部門長となり、新たに准教授1名、助教2名を配置していただきました。同部門では歴史資料の保全だけではなく、地域史料を活かし地域住民と協力した地域史研究の推進を旗印としました。

■「よみがえるふるさとの歴史」シリーズの刊行-2013年
 東日本大震災は地震・津波、そして原発事故による放射能汚染という、自然災害と人災による複合災害でした。被害をこうむった地域では幾多の尊い人命を喪い、社会の基盤が壊滅的な打撃を受け、父祖伝来の地を追われ、生活環境は激変しました。
 このような困難な状況のなかで、多くの人たちが被災者や被災地への支援をおこないました。私たちもレスキューを続けていましたが、事務局ではほかにもできることがあるのではないかということをしばしば話題にしていました。そうしたなかで、歴史学を専門とする私たちには、失われたふるさとの歴史を叙述によってよみがえらせることができるのではないかということになり、宮城資料ネット会員が執筆する「よみがえるふるさとの歴史」シリーズを出版しようということになったのです。
 上廣倫理財団にこの企画を相談したところ、出版助成が実現し、2013年度から3年間で12冊が刊行されました。ありがたいことでした。出版は地元の蕃山房にお願いしました。

■宮城学院女子大学へ-2014年
 災害研の初代所長として2年を務めたあと、63歳で東北大学を退職し、宮城学院女子大学に転出しましたが、宮城資料ネット理事長はそのまま継続しておりました。しかし居場所が事務局から離れたため、日常の活動からも遠ざかってしまうことになりました。それだけに、佐藤大介事務局長を始めとする事務局員たちの負担と心労も増えたのではないかと心配しておりました。
 そこで新たな体制に作り直す必要があると痛感し、資料ネット発足15年を機に理事長退任を決意しました。NPO法人として組織の継続性をはかるためにも、トップが交代し、新しい風を吹かせることが必要だと考えたからです。

■新理事長・斎藤善之さんのこと-2018年
 後任の理事長には、これまで副理事長を務めてこられた斎藤善之さんにお願いしました。20年ほど前に斎藤さんが東北学院大学に着任されたあとのことですが、デジタルカメラで史料を撮影し、その場で色鮮やかなカラー写真としてプリントされるのを見たときには、本当にカルチャーショックを受けました。それまでは重いマイクロカメラを背負い、高価なマイクロフィルムを購入して史料調査に出かけていましたから、史料調査の方法が劇的に変わることになったのです。宮城資料ネットが当初からデジタルカメラによる史料の大量撮影とデータベース化に取り組むことができたのは、こうした前史があったからでした。
 斎藤さんは石巻や塩竃で地元の方々と長年にわたって、古文書解読や地域史の調査、文化財の保存などに積極的に取り組んでこられました。地元を愛し、地元に密着した調査・研究活動を市民と共に進めてこられた方です。宮城資料ネットの活動理念とも重なりあっています。

■今後ともご支援を
 長年にわたって支えてくださったNPO会員の皆様、ボランティアとしてご支援くださった方々、そして宮城資料ネットニュースをお読みくださった読者の方々へ、心より御礼を申し上げます。今後は一理事・一会員として宮城資料ネットの活動を続けてまいります。
 新しい理事長のもとで宮城資料ネットが新たな活動を展開し、郷土の宝、地域の宝、それら日本の宝を未来に継承していってくださることを期待して、退任のご挨拶といたします。ありがとうございました。

(2018年6月3日 宮城資料ネット講演会)