98号 東北・関東大震災 津波浸水域図を見て

救う―救済活動東日本大震災

 宮城資料ネットの平川新です。

■津波浸水域図を見て

 2年ほど前に、仙台の南にある岩沼市の阿武隈川氾濫ハザードマップの浸水予想図を眺めていて気がついたことがあります。岩沼市には奥州街道の岩沼宿がありましたが、同街道の道筋と岩沼宿の部分は、周辺に比べて浸水度が低い色に塗り分けられていたのです。これを見て宿場や街道は、浸水しにくい地形を意図的に選んで設計されているのではないかと感じておりました。そうした目で各地の宿場や街道、城下町などの地形・立地などをとらえなおしてみると、なぜその場所を選んだのかについて、新たな知見が得られないだろうかとも考えておりました。

 このたびの大津波の被害地域を把握するために、資料ネットスタッフの蝦名裕一さんが津波浸水域図(宮城資料ネットHPにアップ)を作成してくれたのですが、これを皆で眺めていて、2年前と同様の印象を抱きました。

 2枚の地図は、名取市・岩沼市および、さらに南の亘理町・山元町の津波浸水域図です(添付ファイル/拡大版はHP版を御覧ください)。国道4号線が仙台から南に向かって名取・岩沼を通り、阿武隈川に行き当たるところから街道は西と南に分岐しています。西に折れて白石に向かう道筋が奥州街道(国道4号)で、南に走っているのが浜街道(国道6号)です。バイパスもありますので現在の国道と江戸時代の道筋とはズレたところもありますが、旧道のおおよそのルートを反映しています。

 旧道は阿武隈山地に沿うように走っています。奥州街道の宿場としては長町宿、中田宿、増田宿(名取市)、岩沼宿があり、浜街道では亘理宿、山下宿(山元町)がありました。これらの地域を津波浸水域図で見てみると、宿場と街道のほとんどは津波の浸水域からズレていることがわかります。こうした事実を前にすると、江戸時代の街道は平場でも山裾に沿っているところが多いという一般的な理解で済ますことはできないのではないか、と思われるのです。平常時には気がつかなかったのですが、あたかも大津波を想定して宿立ての場所や街道の道筋を選んだのではないか、とすら考えたくなります。

 
 奥州では慶長16年(1611年12月2日)に地震があり、大津波が発生しています。仙台領内の死者1783人、盛岡藩や津軽藩の沿岸部でも多数の犠牲者が出たとされています。それからちょうど400年目の今年、またしても3万人をこえる津波の犠牲者を出したのでした。

 建物が大破した研究室には入れず、図書が散乱した大学図書館も利用不可ですので、浜街道の亘理宿や山下宿の開設時期までは調べることができません。しかし奥州街道のうち、中田宿、増田宿、岩沼宿は慶長15年(1610)段階にはすでに存在していたとされています。そうであれば、宿立てのあとに慶長津波が襲ったことになります。同津波の浸水域は不明ですが、もし当初から現在地に宿立てされたのだとすれば、見事なほどに大津波の被害を免れる場所を選び、街道をつくったといわざるをえません。

 現在私たちは、これらの宿場は最初からこの地にあったと考えていますが、この津波浸水域図を眺めていると、あるいは別な可能性も想定しておくべきかもしれません。つまり慶長の大津波を経験したことによって、宿場や街道が、津波の到達しにくい、より山沿いに移動した、という可能性についてです。検討してみる価値は十分にありそうです。

 3月23日の東京新聞Web版に、福島原発を設計した東芝の元社員の驚くべき証言が記載されています。元社員はマグニチュード9を想定して設計するよう進言したが、上司は「千年に一度とか、そんなことを想定してどうなる」と一笑に付したということです。

 四百年前の地震は慶長の大津波を引き起こして多大な犠牲者を出し、千年前の貞観津波(869年)では陸奥国府のあった多賀城まで押し寄せて「溺死者千許」に及ぶ犠牲者を出しています。東芝の上司の発言は、そうした歴史の経験を完全に無視したものでした。福島原発設置からわずか40年にして、その「千年に一度」の大災害に見舞われてしまったのです。歴史を無視した結果、多くの人々の生命が重大な危機にさらされてしまうことになってしまいました。これを大人災、大不祥事といわずして何というのでしょうか。

 先に紹介したように、江戸時代の宿場や街道には今回の大津波も到達しませんでした。そうした立地をみると、過去の先人のほうが、よほど歴史の教訓を活かしているのではないかと思わざるをえません。

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