185号 石巻市旧河北町・北上町での活動

救う―救済活動東日本大震災

 事務局佐藤大介です。2月は被災地でのレスキューが続き、ニュースの発信も遅れておりました。本号は、2月8日に実施した宮城県石巻市旧河北町と北上町での活動についての詳報です。

1 集落の記憶として―石巻市河北町尾崎・神山家の古民家と古文書
 午前中は、石巻市の旧河北町尾崎(おのさき)地区にある神山家で、被災した古文書の一時搬出を実施しました。同家での活動は、昨年12月1日に東北学院大学で行われたシンポジウム「大震災を越えてⅡ―北上川流域の歴史災害と復興―」(同大学アジア流域文化研究所主催)がきっかけです。講演を聴講された神山家の支援者の方から、本会理事の七海雅人さん(東北学院大学)に古文書レスキューの依頼があり、七海さんと佐藤で対応することになりました。

 尾崎地区は、北上川(追波川)の河口にあります。私がこの地区を訪れるのは、忘れもしない2011年4月4日、雄勝町と北上町で、かつて調査した古文書が全て消滅したのを確認することになった、震災後最初の現地調査以来です(ネット・ニュース100号を参照)。


 当日は吹雪模様となりました。あのとき津波で破壊されていた北上大橋沿いの堤防は復旧され、震災前と同じくその上に道路が造られていました。しかし、釜谷地区から先は、大川小学校の校舎を除き、建物がほとんど撤去されていました。文字通り無人の荒野となった光景は、精神的に堪えるものでした。同時に、仙台という大都市で日々を過ごす中で、自分も震災の記憶を風化させてしまっているのではないか、ということに気付かされることにもなりました。
   (絵*神山家の母屋(石巻市尾崎・旧河北町)

 大川小学校で所蔵者と支援者の方と待ち合わせて、吹雪と砂塵の中を、河口に位置する集落まで進んでいきました。河口にあった海岸林は全て津波で消滅していました。長面浦に面して、長面、尾崎という二つの集落があります。長面地区は釜谷地区と同様、被災建物はほとんど撤去されていました。一方、山の陰に位置する尾崎地区では、建物が比較的多く残されていました。その中に、神山家の家屋がありました。
 (絵:被災した古文書類) 


 神山さんによれば、当地特産の雄勝スレートを葺いた屋根をもつ家々が作り出す、尾崎地区の景観の重要さを以前から知らされてきた、とのことでした。尾崎地区は災害危険区域(居住に供する建造物の新築・増改築・修繕不可/平成24年12月1日より)となったが、それでも自分の家ぐらいは残したいと思っている、というお話もありました。修復後、公的な施設として活用できればとのことです。母屋は専門家による調査で構造上問題ない状態とのことですが、修覆の費用については今のところめどが立たない状態だそうです。

 古文書類は、母屋の仏壇の中にしまわれていたとのことでした。まさにいま保存に取り組もうとしている母屋を建築した際の帳簿や、江戸時代前期の山林利用に関する文書などが確認されました。見つかった古文書は自ら乾燥していたとのことですが、塩分のためか表面は湿気を帯びていました。


母屋の建築に関する帳簿以外は、母屋の隣にある板蔵で確認していました。その最中に思わぬ事が起きました。震災後から板蔵に出入りしているというハクビシンが、文書の一部に排泄物をかけてしまったのです。一体どうすればいいのか。ひとまず井戸水で洗うことにしましたが、かえって文書にしみこませてしまう結果に。仙台市での応急処置作業班に迷惑をかけることになってしまいました。そのようなこともありましたが、段ボール箱3箱ほどの文書を一時搬出することができました。
  (絵*土蔵に侵入したハクビシン)

 個人的に、今回訪問した尾崎地区は思い入れがあります。尾崎地区が面する長面浦には、仙台藩重臣片倉家の家臣が天保2年(1831)に開発した塩田が、昭和26年(1951)までありました。佐藤は『北上町史』(北上町教育委員会 2004)で「長面塩田の歴史」の執筆を担当しています。実は神山家では、震災前までその塩田を描いた絵画を所蔵していました。床の間に飾っていた絵は、津波での浸水をわずかのところで免れたそうです。貴重な史料の管理が不安なので、震災後すぐさま、片倉家ゆかりの宮城県白石市に寄贈したとのことでした。この「長面塩田の絵」は、3月3日まで白石市歴史探訪ミュージアムでの展示「震災を越えて―白石市の文化財レスキュー―」(主催:白石市教育委員会博物館建設準備室)にて、同市の博物館建設準備室が市内でレスキューした被災歴史資料とともに展示されています。

2   10年ぶりの「再会」―北上町Y家文書
 神山家に続いて、北上川の対岸にある北上町Y家を訪問しました。あの時、津波で押し流された北上大橋には仮設の橋が架けられ、対岸にすぐ渡ることができました。
 先のシンポジウムでは、石巻市北上総合支所の今野照夫さん(元・北上町史編さん室長)から、旧北上町関係の古文書の被災状況が改めて報告されました。18件中10件が津波で消滅したとのことでした。北上川の堤防から直線距離で500メートル程のY家は床上浸水の被害を受けましたが、古文書の被災は免れました。今野さんから、Y家で古い写真が確認されたとの連絡があり、河北町での活動に合わせ、七海さんとともに状況確認を行いました。


 写真の中には、明治時代の終わり、地元で「平形なめし」とよばれる湿田の排水のために設けられたポンプの落成記念を写したものがありました。「平形なめし」では、江戸時代から人々が洪水と戦いながら水田耕作を営んできました(『北上町史』通史編)。明治時代に入っても人々の努力が続いていたことを知りました。なお、津波で被災した「平形なめし」は塩分除去を行い、今年から耕作が再開される見込みとのことです。
 古文書の無事も確認しました。北上町史の中性紙封筒に収められた文書は、2002年12月の町史編さん事業による調査で整理したものです。10年2か月ぶりの「再会」は、感慨深いものでした。その他にも新たな史料が確認されたため、簡易な撮影を行いました。
  (絵:Y家文書の現状)

 震災から間もなく2年が経ちます。今回訪問した地域では、無事だった史料の現状確認を行う必要があります。もちろん、史料を津波で失った所蔵者とのお約束である、古文書写真の「返却」も進めなければなりません。関係者と協力しながら、順次対応していく予定です。